かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

003|時間ーーー!

今日は22:00退勤じゃー!

 

でも、嫌な気持ちではなかった。

困っている誰かのために、チームのために残るのは嫌ではなかった。

 

そういう気質を友だちには、炭次郎だと言われる。

 

自分ががんばらなきゃ!と奮起してしまうこと。

 

今日、遅くなってしまった原因の一つがコロナ対応である。

コロナ対応の大変なところは、対応を迫られた後に時間がないことだ。

 

その日に言われて、その日中にやらなければならないことが出てくる。それがきつい。

 

県から降りてきて、市町村によって対応があるようだ。

4月いっぱいの方針を出すところもあれば、とりあえず2週間のところもある。

 

その間が休校ではなく、休業というところに闇を感じなくもないが、そこは生きていくしかない。

 

「分散登校」という言葉も降りて来る。時間違い、クラス違い、日にち違い、学年違いといろいろある。低はなし。中、高はありなど。いろいろとあるだろう。

 

プラス「学習する権利」を保障する視点も入ってくる。「子どもの最善の利益」は何か。最悪の事態プラス、利益を想起して動かなければならない。一瞬で判断するというわけではないけれど、まさによく学習指導要領で言われるよう未曾有の事態に問題解決する力が求められる。

 

 

【自分の話し方の話】

「途中から入るから」ということを妻から言われた。話題の前半がカットされて話が始まるということだった。なんだろうなあ。

 

 

【昨日はイラついてしまった】

教室準備で「おいっ!」となってしまった。私の誤りもいくつかある。

  • 前もって聞かなかった
  • 仕事が早く終わっていると向こうは知らない
  • 誰かいるだろうと思っていた
  • できると思われている

などなど。こういう齟齬のエラーによって、軋轢が起こる。起こしたに近いが。

 

「寂しい人をつくらない」というスローガンが好きだ。ケアの精神。心を行き届かせること。心配り。それにしてもどうにも、学年とか、学校を助ける、つくっていく、手伝うという視点がない。個と個で、つながりあって終わる。本来人間はそういうもんだから仕方ないってことだろうか。つながりのないものが悪いのだろうか。「言ってくれればよかったのに」の応酬だらけである。

 

ただ、これは、がんばり炭治郎と反する。炭次郎は、寂しくても今は自分が頑張る時だと鼓舞して乗り切るだろうな。その中にある弱い自分が吠えることがあるようだ。

 

もっと初任らしくいなければならないのかもしれない。