土曜日
【ピヨ子さんの様子】
声を出すための訓練をしているかな。
「うー」というハミング系と「おー、あー」という胸発声で泣くこと。
【コンセプトの話のつづき】
そもそもの自分はここまで来て、立派にやるにはやってきた存在だとして。
そうやって、どうしてここまで来られたのかをハウとして語っていく。
ヘタ帽子のとき野菜の気持ちになれる。
【モチベーションについて】
ある物を見たり、人のエピソードを聞くことで、それが刺激になって、海馬や扁桃体が反応してやる気になる。どう刺激をするか。
【アートについて】
「意味」と「表現」の練習に。
いくつかの本を読み切らないとなあ。
【社会とは】
社会とは「個VS.多数」のシステムに乗っかることなのだろうか。話したくて覚えた言葉は、別の役割を求められ、自分の今は失われていく。弁明だらけで、自分は押し殺して、誰かのための言葉に作り替えられて。
【あっ】
コーヒー夜はダメだ。
眠いのに寝ても寝れた感じがしない。
【子どもを導くときに】
どこまでお膳立てでいくのか、その外発から何を育てていくのか。
日曜日
空白
月曜日
【学級が開ける】
- うまくやろうとしない・するな!
【入学式に教室でやること】
- トイレの確認
- 肩を上げ(2回ずつ両方、右、左を2セット)
- ご入学おめでとうございます→ありがとうございますを教える
- クイズ(聞くこと、座ること)
学校名
クラス
先生の名前 - 最初の学習
呼名→返事をする
(コロナを意識してやらなかったけど)
- かしこくなりますよ→頭をなでる
- やさしくなりますよ→握手
参考:
【差別性について】
差別性をいかにオブラートに包むか。表に出さないか。
そういうことが非差別なのだろうか。
心より行動?
本当は嫌だけどってこと?
表出しなければよし?
たとえば、そこに正義をかざしたとしても。
自分の中にもある「あいつは◯だけど、こいつは×」が苦しくてたまらない。
それをなくそうと是正するも、私の中にある「それ」。以下、ループである。
ああ。本当の意味で「どの人間もいていい」と思えるだろうか。学校という特殊な場の中で。
TPOを個々に適応できるなら差別は起こらない。なぜか差別が起こる公的な「社会」でそれを為そうとするところにつまずきがある。
社会が差別に適応すればいいのだろうけれど。まだまだカスタマイズはいる。
誰かのために、私たちは配慮しきれないという証明なのかもしれない。
基本笑顔だから気にしないとか、いい人そうだから気にしないとかも違うって思えてしまう。
火曜日
【礼儀の本をわずかに読む】
「礼儀」とは、一つの技能、すなわち他人の立場に立って、そのときどきの場面に何が必要であるかを見抜く能力なのだと、この本は教えていました。
P16
「人から"俗物"と呼ばれるようになってはいけません。そういう人たちは、人を分け隔てなくもてなすことをしません。何か見返りがあるから、人に親切にするのです。俗物はあらゆることを金銭という尺度ではかるのです」
P17
隣人を自分のように愛しなさい。
人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
ーーマタイによる福音書ほか
P23
「隣人を愛せよ」は、切り札的に人生に必要なことだなって思うなあ。
他人とともに生きることが技術であるとは、だれも思わないかもしれません。けれど実は、これは最高にデリケートで、むずかしい技術なのです。若いときにこの技術を身につけておけば、多くの不快な経験をしないですみます。
この技術を習得するには、何よりも「礼儀」をもって他者に接しなければなりません。「礼儀」とは、思慮深く、気配りにあふれ、他人と自分を大事にする生き方のことです。
P24
「気配り」のところ
P27も
つづく
【不安は発明である】
我々の「元祖!生存戦略 !」って感じだ。
愛そう、抱き留めよう。
水曜日
【ピヨ子さんの様子】
なめるが盛んになる。たくさん「あー、あー」言う。夜よく泣く。2時間半!?
【再確認】
- 宿題・連絡帳の預かり方
- 学年に合わせて当番、係(所属意識がというところ。そうそう。)
木曜日
【『嫌われる勇気』再読(スタート)】
「命題:自分が変われば世界は変わるは嘘では?」
本当は回りが変わるしかないという。しかし、「自分が変われば」は、脱依存にとって重要な考え?流行る背景には、それだけ依存的な社会が蔓延しているという証拠でもあるわけだ。
(ここからは、読みながら良い思って抜粋したこと)
- 人は経験に与える意味を生きている
- 「不安→自分の現状以上に踏み出ない」のループ。しかし、不安にならないことが目的だとしたら?これは延々と勝ててしまうということ。原因と目的の一致は、動かないことを肯定してしまって無敵だ。
- 大声は面倒であったり、頭が悪いから出る
- 世の中は、意味づけを誘導して、面倒を避けつつ、個人をかき消そうとする。知らないうちに自分の目的を生きられないで、考えられなくして、誰かの意味を生きさせようとする。そして、たぶん、経験での感情の揺れ動きだけが意味を見いだせるのだろうな。ああ。
- 何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うか
一旦中断で
【今の自分にとって「鍵」になることは】
人々の中の幸福感覚にアクセスできるような「意味」を創り出してそれを個別にカスタマイズする作業の手伝い。そのイコライザー(調節器ないし言語化)を手に入れるのが大変なんだろうな。
そのイコライザーを動かすのに重要な問いは
- どう生きたいのか
- 何をして生きたいのか
そして、その調節の成分は、自分がもっている以上のものは、それを捉えて言祝ぐことができない。つまり、私が獲得した「人間としての意味」が、売れるかってことなんだよね。そして、それこそが人間性と言われるものなんだ。人間を見るモノサシのことだね。そして、それがマジョリティな方が評価を得やすいのは、当たり前のことなんだよね。多くの人にとって分かりやすくて、いいねって言ってもらいやすいからだ。居場所にしてもいいという許可がたくさんもらえるってことでもある。
【承認欲求が前提にある日本人的美学のコミュニケーション】
「恥の多い生涯を送って来ました」
この言葉は、とことん嫌われないことを防ぐ最強の言い回しだと思う。これにどこか惹かれるのも日本人だけなのではないだろうか。
この言葉を置くことで、徹底的に嫌われることを防ぐことができる。
「嫌われる勇気」とは、この冒頭の言葉を言わないことに近い。たとえば「私の生涯ほど誇らしいものはない」から始めるということだ。すると、主人公の風貌は愛らしくなく、下衆い感じがしてくる。ここの話とウエンツが火曜サプライズで言っていたことはかなり近いところにある。
【ろうを生きる】
これよかったんだよなあ。
- 予習する
- 復唱する
その人なりの実際的なHOWを教えていて温かった。
【『嫌われる勇気』のつづき】
- 理想の自分との比較
- 勝ち負けという土俵に上がらずに祝福を。負けにいかないし、勝ちにもいかない。権力争いには、乗らない。
- これは正解「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れている。(自分は正しくないという戦略が正しいとなるところで、自分が正しいとすることが仕事となっている場所にいるから難しいわけだなあ。正しさは我々によって生み出されると思っていたらいいのかなあ。)
- 誰かのせいとか、何かのせいにするってことは、やっぱり自分のタスクから目を逸らしていることになるんだ。それは、自分が動かないための言いがかりだってことなんだろうな。自分と向き合わないために関係を終わらせるために(高学年は、子どもでいさせてあげることとか)
- やはり、わたしはわたしでいていいのかもしれない。「精神論」じゃないか!というのもある。あの人はどんなタスクと向き合わないことにしていてああだったのだろうか。
-
心を開いて助け合う力
-
「勇気」
-
他者からの承認を選ぶか、承認なき自由な生き方を選ぶか
【アドラーギルドのPDF】
見たいなあ。
金曜日
【『嫌われる勇気』のつづき】
- 「傾向性」って言葉が気になるなあ。人間はそっちにいっちゃう的な意味だったかな(哲学マップにあったような)
- 「あなたが誰かに嫌われているということ。それはあなたかま自由を行使し、自由に生きている証であり、自らの方針に従って生きていることのしるしなのです」それでイェーイって?で、失敗したら正せばいいと?
- 「嫌われる可能性を恐れることなく、前に進んでいく。坂道を転がるように生きるのではなく、眼前の坂を登っていく。それが人間にとっての自由なのです」これはいいかもかな。
- 「他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚といいます」
- 「自己への執着を他者への関心へ」→他者への関心=総時間的なものでもある
- 「『ここにいてもいいんだ』という所属感を求めている。しかし、アドラー心理学では、所属感とはただそこにいるだけで得られるものではなく、共同体に対して自らが積極的にコミットすることによって得られるのだと考えます」
- たとえば、昨年の彼らの中の数名1年の教室にいる方が貢献感があったってことなんだよね。
- 積極的にコミットするとは、「人生のタスク」に立ち向かうこと。
- 対人タスクを回避することなく、自ら足を踏み出していく。→「この人はわたしになにを与えてくれるのか」ではなく、「わたしはこの人になにを与えられるか」を考える。それが共同へのコミット。→所属感とは、生まれながらに与えられるものではなく、自らの手で獲得していくもの。
- つまり「教室を共同体にするには?」という問いだね。「共同体教育」「教室共同体」
- 対人関係の中で困難にぶつかって、出口が見えなくなった時の解決策は、「より大きな共同体の声を聴け」という原則→こう思っていても、相手には逆張りされて、家の中の声を聴いた場合は?????????こっちはどういう態度でいればいいのだろう?そうして、あの子は共同体の声を聞けず当該学年になれなかった人ってなる。
- ああ、こういうカードもあるのか。「理不尽な要求を突きつけられたのなら、正面から異を唱えてかまわない」→「もしもあなたが異を唱えることによって崩れてしまう程度の関係なら、そんな関係など最初から結ぶ必要などない。」ってぶった斬れる関係だったらいいよなあ。仕事だからなあ。しかも全体の奉仕者やし。
- 「関係が壊れることだけを怖れて生きるのは、他者のために生きる、不自由な生き方です」→確かになあ。逆に壊さないようにってことが、関係を壊しているってケースをイメージして、動くべきだったか。最低限はやったはずだけど。→かつ、「あなたとわたし」以上の共同体の方を取ればいいわけだね。
- 「横の関係」について。人が他者をほめるとき、その目的は「自分よりも能力の劣る相手を操作すること」なのです→介入ではなく、「自力での解決を援助」する。それを「勇気づけ」という。
- たとえば「ありがとう、嬉しい、助かった」→「苦しい、悲しい、辛い(ああ、あれか。身体的苦痛的な話か。共同の課題ね)」
- 「人は、自分には価値があると思えたときにだけ、勇気を持てる」親からの「価値がない」という罵りに、価値を感じに一年生のところに行く。クラスで価値を感じさせられればよかったが。→その子の「価値見つけ」か。くそー。価値?なのか???!→人は「わたしは共同体にとって有益なのだ」と思えたときにこそ、自らの価値を実感できる→他者に働きかけ、「わたしは誰かの役に立っている」と思えること。他者から「よい」と評価されるのではなく、自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること。→この仕組みづくりだよね。たとえば、当番はみんなの役に立つ大事な役割だよ、とか。→反対に役に立たないと思うことで、劣等感は募り、私は息苦しくなってくる。また、居るだけで役に立つというよりは、積極的な貢献「感」がほしい。主観的な、「何か」を果たしたいわけだ。他者のことを「行為」のレベルではなく、「存在」のレベルで見ていくあくまで他者!自分をそう見ないこと!?いや、自分に対してもいいって。だから、生き残れているってのもあるか。
- 学校は、「縦の関係」にブレやすい。そういう氣が入りやすい。だから「コメダ」の「横の関係」をもっておく必要があるんだ。正常な人間感覚を味わえる場所をとっておく必要があったんだ。ああ。
- 脱「責任の回避」、この回避によって「縦が生まれている」ああ。
- 無知によってそれを鎮めたい。自分のせいにしてってことだ。人のせいにすることで、自分は冴えなくなってしまうつまり、「何を所属とするのか」のモノサシによって、生きづらさが変わる。
- 「ここにいてもいい」でいいのに、それを受け入れられない。思い切り「縦」の中にいるときに、ケアがいる。本来そのまんまでいいのだと。それに反するメッセージを叩き出してしまっているから、言っていることとやっていることの齟齬が出て、不審につながっていきもするわけだ。
- (↓なんか久しぶり感がすごいわ。)
- ・自己受容→肯定的なあきらめ、保留、ニーバーの祈り、二次意識、個人内評価
- ・他者信頼→それでもなおら信じ続ける態度(最後の二日間かな。それでも、それすらも超えて信じ抜くこと)、性善説、箱、Aだから与えるではない、
- ・他者貢献
- 「他者受容経由の自己受容を生むこと」なのかな。たとえばあの子を積極的に受容することで、生きられたかもしれない。これは、私の自己受容が問題になること。そこにある自分を受容できていないから、他者を受容できない。子どもも安心して、受容されにいけない。
土曜日
【『嫌われる勇気』のつづき】
- 自己犠牲は「社会への過度な適応」
- 仕事が貢献になっていない場合という底無し沼がある。
- 少数のネガティヴに取り憑かれること「人生の調和」を欠いている→目的論と勇気ね
- Aを理由にBの責任を回避しない→それが仕事だろうか。それとも、それを背負ってこそ仕事か。
- 人間にとって最大の不幸は、自分を好きになれないこと、「わたしは共同体にとって有益である」「わたしは誰かの役に立っている」という思いだけが、自らに価値があることを実感させてくれる
- 主観の貢献感をもつこと
- 「幸福とは貢献感である」
- 貢献感は人それぞれ違う。おそらく、その貢献感の再現が「幸福感」である。それは、自分にとっての「大変」と裏返しかもしれない。自分が大変だと思うことをすることで、「貢献感」を感じやすくなる可能性がある。本当は相手にとって大変で自分ができることの方が良いけども。どれで貢献感を感じやすいから人によって違うのだろうな。どの反応とかどの解釈で自分が貢献感を感じるかがそれぞれ違う。そうなると自分が(もしくは周りが)貢献感を感じやすい環境作りだよね。私としては、やっぱり自分ができないことをやると、貢献感があるなあ。もしくは、誰にもできないこと。一目置かれること(これはNGだろうけど)。でも、そうなるとこれは、詰みの時間の方が多いに決まっているんだよなあ。他者ありきかつ鍛える間の待ちが多くなるだろうから。
- 「何で人の役に立ちたいのか」それをはっきりとさせることだね。そしたら、それを鍛えればよいし、ブレずにその技術を使っていけばよい。ウリは?ってやつだ。
- そして、結局のところ、本当に貢献できたかどうかは、原理的にはわかりえない。→人生とは連続性の中にあって、その一年をやり過ごすことが仕事ではないのだから。あの日の教育は延々と連なっているで、間違いない。
- 「承認欲求は、貢献感を得るための手段である」しかし、それには「自由がない!」
- つまり、「本当の」承認欲求を満たすことが、目下大きな課題として君臨している。それが「ありのままの自分」が「あり」になることである。それには、まず「ありのままでいるための戦略」→「いる」。次に「ありのままを認められる戦略」→貢献感など、何段階かの壁がある。長いキャリアによるオリジナリティ(日常でない承認)であったり、素の状態であったり、専売特許な状態を承認されることを最終的なゴールとして、無限に違い枯渇をなんとかしようと喘ぐ戦略に陥る。それと、薄いとか浅いとか。
- 私は、子どもじゃなくて、本を見ている?どちらかに突き抜けろよ。本を見るなら本を!てやー!
- 「普通であることの勇気」地に足をつけてというような。特殊でなく、特殊を受け入れられるように。ぬーん。
- 人生を先延ばしにしている限り、われわれはどこにもいけませんし、味気ないモノクロームの日々が続くだけでしょう。
- 「いま、ここ」を真剣に丁寧に生きること。人生はつねに完結している。