かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

011|『幸せになる勇気』と定点観測

昨年度が脳の容量を喰っている。見ないふりをしていても、そこは自動で容量を喰うから面白い。そうして、人は負担感を蓄積して、老衰していくしかないんじゃないかと思う。

 

今週になって、オンラインをしないかと二人に声をかけられる。後手である。そろそろ、定点観測を入れた方がいいのに、と思っていたのにね。

 

この仕組みは為替のようで面白い。下がっているか、上がっているかで、声のかけられる紙幣が違うというような具合に。どうして、かなかなか「ねぇ」という声をかけられずに塞いでいた。

 

そういうところがある。自分の中でそれなりにクリアになるまで、声をかけようとしない。それでは、クリアにならないと知っている。というか、そういう生存戦略(コミュニケーション)というか、変わらないパターンを持っている。

 

「助けて」が言えないのだ。

そして、それで助けてもらったのでは、救われないとも思っている。手を差し伸べられることに意味があるとも思っているのかもしれない。ずるさのようなものを感じもする。でも、それで、やっぱり、心は軽くさせられる。要は、相手に負担感のない「感」。そういう雰囲気でないと、心を軽くできないということ。

 

そうして、昨年度は、空気として吐き出されて成仏する。成仏した。そういう「感」があった。

 

『幸せになる勇気』を読んで、「簡単ではないことをやっていた」と思った。思い直した。

 

なら、お前、教師やってみろよ、と言いたくなった。理想は分かるが、仕組みがないと思った。

 

そうして、「できないということは、価値がない」と反芻していた自分にも気がついた。成果とは何かという話でもある。

 

ただ、成果とは必ずしも実感のフィードバックを与えるものでもないのだと分かった。その生産性重視の考えをもってしまっていた。その時点で見せる背中が違ってしまっていて、奮闘は濁ることになっただろうなと思った。それが、子どもを戸惑わせることにつながる。

 

幸せになる勇気 特装版 自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気 特装版 自己啓発の源流「アドラー」の教えII

 

 

「じゃあ、地に足のついたできることを」、という思いもある。ただ、それが地に足がついているかは、やはり誰も分からない。教育とはブラックボックスで、受け手と担い手の利害が一致したときに、成果や満足感を感じるように出来ている。むしろ、それ以外の物差しの準備のしようがない。

 

 

そこで、問いは自分に跳ね返る。

  • どう生きたいのか
  • 何をして生きたいのか

 

このモヤモヤを闇にしてしまうと、長い間そこから抜け出せないような気がする。30代はそういう時間でもいいとも思うけど、知識や対話がそこから抜け出すきっかけになることは多いだろうな。

 

 

それでも、それは心地よくないから、そうしたくない。だから、追い続けるしかないのだろうな。今は、そういう着地点だ。

 

仕組みの部分で、たとえば「横のつながり」を求める中で、「縦のつながり」(評価や評定)が仕組みとしてある学校。かつ、話し合いを重視するにも関わらず、時間のない学校。これでは、アドラーの考える教育の実践は難しいのだな、と分かった。

 

地に足のついたということで、「縦の関係」を意識しすぎて「自分を崩す」と、その方が疲れる。疲れるというよりは、自我が崩れ落ちていくくらいのイメージ。

 

最悪、目に見えた成果はなくてもいい。

たとえば、卒業式に全員出席して、卒業していったのが事実だ。少なくとも。

 

また、今年度が通常の学級3年目で、今度こそ悔いなくやりたい、そつなくこなしたいとも思っていた。

 

ただ、それも「承認欲求」に翻弄されているだけで、別に一目置かれるような先生でなくてもいいし、追うのはいつだって過去の自分でいいやと思った。

 

うまくいかなくていいから、そうして「居る」ことを貫きたい。

 

私はそういうシンボルが必要だと思うから、そこにいて、これをやってこうと思っているわけだ。

 

一人くらいは、そういう教師もいた方がいい教師をやろうと思っているんだ。そもそも。