それでも幸せな人はいるから

特別支援学級の担任をしていて感じたこと。幸せな子ども時代を過ごす子どもが一人でも多く増えるように

「忘れ物」と「記憶」について

ブックオフで本を漁る「ハピペン」です。このブックオフへ行く途中に、「忘れ物の指導と将来の忘れっぽさは相関があるか?」という話になった。

 

将来のために、「精神論で!」忘れ物はなくさせた方がいいのか?

 

うーん?どうだろう?

その精神というところの脳の発達が将来の忘れ物に影響するのだろうか……。

 

忘れ物の指導は「なんのために」行われるのだろうか?

履修すべき授業が受けられないためっていうのは大きな理由だと思う。けれど、「忘れ物をしない力」を付ける、としたら、それって存在するのだろうか?

 

たとえば小学校であれば「中学では誰も助けてくれないんだぞ!」って言葉が放たれることもある。

 

誰も助けてくれないから、忘れ物は「しちゃいけない」のだろうか。

私は「そう思っててもしちゃうから忘れ物なんじゃないか?」と思う。

(それこそ、私が、その「忘れ物しない筋」みたいのを学童期に鍛えられない存在だったからそう思うのだろうか。私はどうしても「つい」忘れる。)

 

ただ、人間いつでも忘れ物をするわけではない。偶然か、何かの因果か、忘れ物をしないときもある。

そして、そういう日があるからこそ「精神論」にもっていかれるのだが……。

 

前に「荷物を揃える時間が関係する」と聞いたことがある。忘れ物をする人は、「朝揃えることが多い」らしい。

そうなると、精神論で、「するな!」ってよりは「前日に揃えて!」って指導言の方がマシなわけだ。

 

そして、本題。

ブックオフで、記憶について書かれている本を見た。

それには、記憶するには

「繰り返す」

「印象に残す」

「関連付ける」

が大切だと書かれていた。

 

「精神論」の「するな!」的な怒りは、「印象に残す」を使った指導なのだろう、と思う。

人間にはポジティブよりは、ネガティブな記憶は残りやすいとよく言われる。だから、「忘れ物をすること」と「怒られる」を組み合わせて、忘れ物を防ごうというわけだ。

 

ただ、怒られ体験と忘れ物をしないようにする意識が結びついているかを、冷静に分析する必要はあるだろう。

「怒られた印象は残るが忘れ物はする」という現象が起こっていることも少なくないだろう。

この指導法でいくなら「忘れ物をしてしまった印象」を「怒られた印象」が越えるような怒り方はしてはいけないということだ。

 

また怒ってくれる相手がいなくなったら、たちまち忘れ物をしてしまうのではないか、という懸念もある。

 

実は、忘れ物を防ぐには、その子に合った「仕組みづくり」の方が重要なのではないか、と考えている。

 

発達に凹凸があるかの中には、漢字を「ある大きさより大きく書くと覚えられる子がいる」と聞いたことがある。

小さいと覚えられないが大きいと覚えられるのだ。

人は大きい文字だと印象に残る。ただ、それだけの話だ。

ならば、忘れ物をしやすい子への「仕組み」の一つに、「もちものを大きく書け」というのがエントリーする。

そんな風に、「繰り返し」「印象に残す」「関連付ける」を組み合わせて忘れ物をなくしていき、自分に合った「忘れ物をしにくくなる方法」を見つけてあげた方が、将来の役に立つのになあ、と思った。

 

この辺りが「周囲の人は、まるでそうとは思えないようなこと」を「ある教師が支配する学級にとっては真っ当なこと」にできてしまうという教師個人の主観や価値観による教育システムの怖いところだ。

自分を一般化するのはいい。だけれども、自分を一般化して子どもを責めるのはやめてほしい。

できないのは、少なくとも「子どもだけのせいではない」っていつも思う。

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