遅寝早起き!マズイ!「ハピペン」です!
たまには授業論。
新学習指導要領に示されていること
まず、前提。
次期学習指導要領には
主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善
障害のある児童(生徒)などについては、学習活動を行う場合に生じる困難さに応じた指導内容や指導方法の工夫を計画的、組織的に行うこと。
といったことが書かれている。
一つは、向こう10年すべきことは、授業改善ってことだと。
もう一つは、学習活動を行う場合に生じる困難さに応じた指導内容や指導方法の工夫が求められている。
ここの、障害のある児童についてだけなのかが気になってしまうが、"など"を信じたい。診断名がないと、配慮しませんでは困るなあ、と。
「授業のUD化モデル」について
以下の図は、小貫先生たちでつくられたもの。
まず。参加のための環境整備。
そして、参加するだけでは授業の価値はない。参加の次には理解がある。
そうした理解の手立てには6つがある。
http://www.kyoiku-shuppan.co.jp/textbook/shou/shakai/files/syakai_ud_01_160524.pdfより
理解のための6つの手立て
- 焦点化
- 展開の構造化
- スモールステップ化
- 視覚化
- 身体性の活用(動作化/作業化)
- 共有化
大切順。
「焦点化」について
焦点化の重要性についてこんなたとえで教えてくれました。
そもそもの、不参加が生じやすい例として「聞く時間」が挙げられていました。実践知から、「聞く時間」も子どもは参加から離脱するそう。
それを回避するためには、聞く時間を
- 減らす
- 充実させる
のどちらかを行う必要があると言っていた。
そのためには、「考える時間」を増やすこと。
そのためには、どの子も「考えられる」ようにサポートすること。
焦点化がされていないと、そもそもの考えること自体をはじめられないと言っていました。
どう焦点化するか
「山場」を考えると言っていました。
ここからが秀逸というかややこしいと私は思ってしまったのだが、その後に「展開の構造化」の話が展開していた。
その「展開の構造」の中に、「山場」の概念がある。
「展開の構造化」とは?
展開の構造を紹介する。
- 導入(5分)
- 展開1(15分)
- 山場(5分)
- 展開2(15分)
- まとめ(5分)
真ん中に「山場」があります。
「山場」とは?
端的に言えば「子どもの心が動く瞬間」だと説明がありました。
「山場」は「子どもの動く瞬間」です。
その心の動く瞬間は「どんなことに、どんな反応をしている姿か」をイメージし、そのイメージした姿が現実化するには、どのような展開が必要か。
その展開を後付けで考えるという手順で授業を構想するそうです。
「山場」をイメージするときのヒント
それは「感嘆詞」だそうです。
子どもは、心が動いたときに何かしらの感嘆詞を言うのだそう。
これは、あくまでもイメージで、全員が全員こちらがイメージする姿の言葉を言うわけではありません。
この感嘆詞は「めあての言葉との整合性」があると考えられます。
「分かった!」「できた!」「これだ!」「おぉ」など。
そして、授業を見てきた中で「山場」の相応しい位置は、20分から25分の間だと言っていました。そうした授業は成功していることが多いとのこと。
一般的に「山場」というと盛り上がる展開の活動を考えてしまいがちだと思うのですが、そのときの子どもの理想の姿を基に、展開を考えるというのが、秀逸で、より本質に近づける考えかただと思いました。
UD授業の最大のテーマは「統合」
これら諸々、UD授業のための方法論なような感じがしてきます。
UD学会のHP(理事長挨拶 of udjapan)にあるように
すべては、子どもたちのために。
すべては、子どもたちの笑顔のために。
すべては、子どもたちの未来のために。
考えられているものです。
授業のUDでよく言われる「視覚化」「焦点化」「共有化」もそうです。上で書いた6つもそうです。「山場」を中心とした授業構想などもそう。
しかし、それらが、どういった意味があって必要になるかといえば「誰もが考える時間」の確保であり、では、なぜ考える時間の確保がいるかといえば、「統合」のためなのだそうです。
「統合」とは何か?
といえば、統合して理解するということ。関連付けて理解するということ。
どういうことかといえば、子どもは授業の中である場面だけを切り取って分断的に理解していることも少なくないという。
授業時間のすべてを通じて「〇〇ということが分かった」となった場合、その理解は確かなものになっていくと考えられる。
それこそ、「主体的・対話的で深い学び」に近づくということだ。
- 参加→主体的
- 理解→対話的
- 習得・活用→深い学び
と当てはめられるだろうとも言っていた。
「親」と「教師」だけができること
他に授業論とは関係ないけれど、本質的なことをおっしゃっているときもあった。
それは、
「苦手がある分必ずそれをカバーする強みがあるはず。そして、それは親か教師にしかできない」と、おっしゃっていた。
そうできる人に出会えたら子どもは力を伸ばすことができる。
「めあて」と「ねらい」の違い
めあては、子どもの目線。
ねらいは、大人の目線で分けると分かりやすいと言っていました。
たとえば「様々な国の文化を知って多様性を認める心情を育む」みたいなめあてがあったとする。
それを見て子どもは「よっしゃー!育もうぜ!」とはならないだろう、と。
これは、大人目線の「ねらい」だからであって、子どもが受け取れる「めあて」を示せるとよいと。
いくつか質問も浮かんでいた。
- やる気を理由に子どもを注意することはあっていいか
- 隠れたカリキュラムはどう指導するか(忘れ物、字が汚い、聞く力、静かにするなど)
- 他の大人がUDの視点がなかったとき困らないか
しかし、すべてチープだと思った。授業のUDの話は、その時間で身に着けさせたい力を付けるためのものだ。そのときねらっていないものは、ねらっていないものなのだから、ごちゃごちちゃ言わないのだと思う。
どこまでも、子どものせいではなく、教師のせいと捉えて授業改善をし続ける他ないのだ。
必ず、何かしら、その子の心を動かす手はある。そう思って考え働きかけ続けることこそ、この仕事で大切なことで、醍醐味で、真骨頂だ。
そういう、素晴らしい思い。モデルを目指して子どもを見つめ続けたい。