かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

『勉強の哲学』を読み終えた

メタ認知で死にそうになっているにもかかわらず、読みたい本は読もう!という謎のストイックを発揮している「ハピペン」です。

読み終えました『勉強の哲学 来たるべきバカのために』。自分に必要なことが書かれているような気がして、つい買ってしまい、5月4日からちょっとずつ読んでいきました。

前回書いた記事

inclusive.hatenablog.jp

 結果は、読んでよかったです!めっちゃ面白かった!

個人的には「自分らしい自分と社会の分断をどう止めるか」という、私がずっと考えているテーマに対しての論理的な回答という感じで読みました。

言葉の背後にある環境ごとに違うコードにノるということ

深く勉強するのは、ノリが悪くなることである。

位置101

この言葉、「承認欲求」とも関係するよなあ、と思う。

学級が支持的風土出なかった場合、深い学びは成立しにくいってことだ。同調圧力が強くて、ノリの悪いやつになることは、悪だからだ。

つまり、子どもたちを深く学ばせたいと思ったら、ノリが悪くても認められるような、認め合えるような支持的風土が前提として必要になる。

「何でも自由なのではない、可能性が限られている」ということを、ここまで「不自由」と言ってきましたが(中略)無限の可能性のなかでは、何もできない。行為には有限性が必要である。

位置196~200

これも本当に面白い。自分をノリに合わせ過ぎても、自分本位にしすぎても結果人は無限に行ってしまう。その中では、自由が広大すぎて不自由になる。

自由っていうのは、ある程度の「自己選択感」なのだろう、と思う。自分が優位な情報や状況の中から優位なことを選べたという錯覚が「自由」という感覚につながっているのだと思う。無限の中では、すべては等価になってしまって優位という価値を感じられなくなる。

そうなると「どうすればその『自由感』を得られるか。無限でない、自分らしい自分を社会に位置付けて選択できるか」が、私たちが答えを切望する問いである。

「こうするもんだ」は、環境において、何か「目的」に向けられています。(中略)環境には、目的がある。

位置203~211

環境には目的があり、環境の目的に向けて人々の行為が連動している。環境の目的が、人びとを結び付けている=「共同化」している。

位置214

ここも、めっちゃ好き。目的が一致してなければ私たちの協働の前提はない、と言えるように思う。

環境や言語の背後にあるコードに私たちは洗脳されているのだ、という。学びは、私たちをその洗脳から脱出させようとする行為。その違うノリへと移動していくことが学び。

 そして、先日体験したLSPはコードの言葉化を手伝ってくれるツール。

inclusive.hatenablog.jp

「ここではないどこかへ感」は「学びたい!」ってことだったんだ

自己不在感が相変わらず強いなあ、とメタ認知をしながら思っていました。「ここではないどこかへ」。もうGLAYばっかり浮かぶ今日この頃でした。

でも、この本を読んでいて、それは「学びたい!」ってことだ。そして「変わりたい!」ってことだ、とコード化することができた。

浮いた語りの本質は、共同性から分離することである。
位置577

つまり、言語の脱目的化・脱共同化です。要するに、「言語をみんなの共有物でなくする」
位置580

この辺りを好き勝手に解釈すれば、孤独感だったり、自分が何者か分かったりってのは、ずっと学び続けようとしていた状態なだけなのかもしれない。

「言葉」を自分なりに生み出して、概念を生み出そうとするのは、自分なりのこれまでの自分の破壊であって、新たなことを説明するために必要だったってことだ。ただ、それとみんなとの「共通性」がなくなって、とっ散らかった感じになってしまったけれど。これが、散らからずに済んで、誰かに再接続できるかどうかが、後半で出てくる「どのソースから学ぶかの正しい選択」の重要性とつながってくる。

ただ、その「言葉づくり」も、自分のコードによって生まれているということに気づけると面白いかもしれない。ちょうど和音の流れを選ぶように、今自分の中に進行しているコードに合わせて、どんなコードがぶつかってどんな音になっているかを想像してみると面白い。環境のコードに共鳴している自分の中にあるコードがあるから、そこに響こうとするわけだ(で、これもまた、言葉を自分なりに生み出してしまっている)。

「アイロニー」と「ユーモア」

  • アイロニー=「根拠を疑う」
    超コード化からの脱コード化(無限に続くそもそも論)→現実それ自体を目指す
  • ユーモア=「見方を変える」
    言語の環境依存的なつながりによってコードを変える。

環境の外には結局環境がある。完全な環境はない。ない環境を目指すことは自分という環境を否定し「自分という環境を破壊する」ことになる。「自分エコ」なんてのが必要だろうと思う。

「絶対解」はないということ、常に二つ以上の立場があるから。その「環境と環境のコード(誰かと誰かのコード)を合わせていくこと」。ずっとそれが言いたかったのだろうと思う。「価値観を共有する・合わせる、理念を一致させる、違いを認める、折り合いをつける、最適解、納得解」など。

日本のある時代の環境下では、「価値観が均一的」だったために、画一的な教育が可能だったという解釈に似ている。

(ただ、これらは、自分の中ではどこへ向かうのだろう?他者を「あり」にって話になっていくのだろうか。たとえば、どのコードも使えるけれど、その曲の流れにベストなコード・和音はあるぞ、と?そんなのやっぱり自分の「耳」次第だが。)

「おいしい」へのアイロニー

場面を思い浮かべてほしい。

みんなでバイキングに行って、「おいしいね」って言い合ってるときに、「そっちのはおいしい?」と聞かれたとき。こう返ってきたらノリはどうだろうか?

「……おいしいって答え以外、許されてるの?(笑)」
位置758

すると、いわゆる場が白けるってことが起こる。

もう「おいしい」という曖昧な言葉には頼れなくなり、どうノッたらいいのかわからなくなる。そして全員がバラバラになってしまう。――「なんでここに一緒にいるんだろう?」
位置768

この話から、承認欲求の関係破綻が浮かんだ。関係に摩擦を生むやり取り、予定調和を越えるやり取り。

この「白け」を受け取れるかどうかは、言語活動能力が関係しているところがあるってことだ。「違いを認める」には、その背景にあるコードを受容できるかという言語能力が関係する。もちろん言語に頼らず感覚的に受容できる人もいるのだろうけど。

個人的には訓盲での「おいしいということを、この学校で教わった」という大切にしている話がある中で、「おいしい」という言葉について語られているのが面白かった。 

 

「音楽なんじゃない?」っていうユーモア

友達の恋愛の悩みを聴いているときに

「うーん、それってさ、音楽なんじゃない?」
位置893

一瞬友達は「えっ?」ってなるだろう。私はよくやってしまうのだが、自分だけが秀逸だと思っているたとえ。

日々の様々な会話の中で「あれ?何の話してたんだっけ?」ってなるときってあると思う。それは、ユーモアによって、やりとりしているコードの見方が変わり、別のコードに移っていったってことだ。しかし、その移り変わりに追いつけないとき「えっ?」が起こることになる。

コードは不確定で揺れているから、どういう発言が「決定的に」NGなのかは、誰にもわかりません。発言がなされるたびに、OKなのかNGなのか、そのつどテストされる。
次のように言い換えさせてください――会話においては、どういう発言ならば、その場のコードの「適用範囲内」なのか、というテストが行われている。
位置878

なんだか就職面接の場面が浮かぶ話だ。

そして、このユーモアの話も「承認欲求」につながる。
なぜそれを話したくて、またその内容に即時的な評価が起こるのか。
この作用によって、人は「承認欲求」を得られるための会話を選ぶという価値観が出てくる。それはそれで重要だろうけど、行き過ぎてしまっているのが、現代なのだと思う。浮かないようにするってこと。

学校が学びの場であれば、浮きは前提としてありにしなければならない。逸脱行動的な浮きではなくてね。

ありのままの揺れを認められる世界」は演出できないのだろうか。

教育において、無理に相手のコードを自分が理想と思うコードに書き換える必要はあるのだろうか。その理想と世界がどれだけつながっているかが、鍵だろうな、と思う。

 

ユーモアはコードを拡張する

これも好きな話。見方を変えれば「あり」にすることができることって多々ある。恋愛の話の中で、二股がダメだとか不倫がダメだとか話題になったとする。そこで「でも恋愛って音楽じゃない?」という見方が出て、それを許容できたとき、とある恋愛の仕方が道徳的に「なし」だったとしても、音楽的に「あり」だってことになる可能性がある(もちろん実社会がどんなことを優先しているかはひとまず置いておいて)。

ユーモアによって、ある物事を肯定する範囲を広げるプロセスが生まれる。

そして、私はどう考えれば誰もが「あり」にできるかでひねりすぎていてこんがらがっている感じだ。

 

他者は、自分を有限化してくれる

「有限化」という言葉は、この本のキーワード。

無限にたどり着けないナンセンスではなく、どう「仮固定」をして、勉強を有限化して、

私たちは個性的な存在です。しかし、100%自分発の個性はない。個性とは、私たちひとりひとりが「どういう他者とどのように関わってきたか」の違いなのです。(中略)私たちは個性的だが、個性とは「他者依存的」なものである。

 

「自分は『何者』であるのか?」ということを考え続けていた私に「他者に出会えよ」というヒントを与えてくれる考えである。土井隆義さんも「異質な他者」の重要性を書いていた。

それで、私はDAFLに行くことを決めたのだった。

 

自分だけの世界では自分は存在できない。

何をしたらいいのか分からなかったら、誰かに会おう。

会えば、あなたは、誰かではなく、あなたであることに気づくことができる可能性がある。

 

『勉強の哲学』では、「言語も他者」としている。

 

無限の可能性のなかでは、何もできない。行為には有限性が必要である。

 

そして、「教師も有限化の装置である」と書いている。

 

私たちは、何を学ぶのか。アルティメットな教育は存在しないとして。

 

さて、ハピペンは、誰に出会い、何を知り、どれを有限化して深く学んでいくのだろうか。

 

ハピペン的には、めちゃ面白い本でした。人生を変えた一冊。

 

この本のおかげでkindleの良さを知れたってのも、大変良い機会だった。

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために