かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

死ぬってなんだっけ(旧:生きるって楽しいじゃん)

 

死ぬってなんだっけ。

「死ぬってなに」

そんなことを突然聞くもんだから、私は咄嗟に頭をフル回転させるはめになった。

「死ぬってのは……『いなくなること』だよ」

私のこれまでの全知識注入。
だって、運動会の50m走の順番を待っている子どもにそんなことを聞かれると思わないもの。

「ふーん」と、子ども。(腑に落ちたのか?)

死ぬってのは、子どもでも興味をもつものだ。
一体なんなのかって。

けれど、結局のところは未だにそれは分からない。医学的、生物学的、法学的にはあったとしても。そして、それは、わりと「死亡」についてだったりする。

私が考えたいのは、「人間にとっての死ぬってなんなのか」だ。

私は、これを「いなくなること」とした。というか言ってしまった。
これは、「生きる=存在すること」の道を通って「死ぬ=生きるの反対」という道を通り、「死ぬ=存在しないこと」を通って出した答えだ。

死ぬってのにはいろいろな瞬間がある。「死亡」っていう「命が終わる瞬間」を指すものもあるし、「その人の認知が地球から消える瞬間」の「死」というのもあると思う。「その人の遺伝子が途絶えた」とか。けれど、その人と出会ったことのある人、もしくは、その人に出会ったことのある人に会ったことのある人の中には、少なからずその人のサンプリングがあるわけで、その人の存在が完全に0になってしまう、なかったことになってしまうことなんてあるのかっていうとないような気がする。
 ただ、影響力はいなくなればなるほど、生きていたころから遠くなればなるほど、薄れるように思う。たとえば、ほぼいないと同じような存在になるって境界があるように思う。

 そうして、一つ問うてみたいのだけど、

「今、葛飾北斎は生きているか」

 間違いなく、「死亡」はしていると思う。(思う、ってかしてる)

 ただ、「生きているか」もとい「存在しているか」と問われると、全く存在していないわけではないような気がする。
北斎がどんな様子で、現代にいるかは分からないけれど、北斎は現代にもいる。

 あの富士山の絵は誰だって見たことあるように思うし、今でもそれを見たくてたくさんの人が彼の絵を求める。少なからず存在している。死んでいない。そんな風に思う。

 ここで、さらに考えたいのは、それでも「存在しているのは、北斎の絵とそのときのその絵に対する心情でしかなくて、本来の北斎が残っているわけではないのではないか」というところだ。
 あるときまでは、北斎の本位で残ったところもあるかもしれないが、どこかで途中から「誰かが残そうとして残ったのではないか」と考えられる。
 要は、北斎が(北斎の考えや絵が)確かに誰かの中に存在して、それを残そう、生かし続けようと思った人がいるってことだ。人間ってのは全く自分の許容範囲を越えて生きることがあるってことだ。
 
 これは、人は生き続けたいと思って生きられるのではなく、自然と誰かの中にいさせてもらって、結局は誰かの中でしか生きられないってことを表してはいないだろうか。
 私が思うのは、やっぱり生きていたころの「本来の北斎に近い北斎はあるときいなくなったのではないか」と思うのだ(織田信長は自分のあの姿がこんな時代まで晒されるとは思っていなかったんじゃないかっていうこと)。

 私たちがそんなにしょっちゅうひいおじいちゃんやひいおばあちゃんのことを思い出さないように、私たちは「死亡」した人をどんどん「いなくならせていく」。「死亡」の先の「死ぬ(いなくなる)」があると思うのだ。
 そこで、少し「死亡」について話したいのだけど、「死亡」っていうのは、私は「忘れちゃうスイッチ」が入ることだと思う。もしそこでそのまま放っておけば、どんどん元々のその人からは離れていくのだ。人は忘れる生き物である。私たちが生きている現在に直接作用しなくなったその人は、その人の過去やその人といた人の想像で補われるようになっていく。これは、その人を胸に抱いて生きていくとか、その人と一体になって生きていくってことに近いように思う。
 これを踏まえると「生きるってことは誰かを自分の胸に入れることで、死ぬってことは誰かの胸の中に入ること」とも捉えられるように思う。

 そして、ある時には、熱い思いによって「忘れちゃうスイッチ」を止める動きもあるわけだ。忘れないために、大切なその人を未来につなごうとするってこと。それで、何年も昔の「北斎がまだ現代にある」ってわけだ。私たちは人をつなぐ、つなぎたい、つなぎたくなるわけだ、愛が止められなくて、その時間が止められなくて。

 この「忘れちゃうスイッチ」のいいところは、反対に忘れたい場合、忘れられるようにも作用するところだ。生きている間に憎んだり恨んだり気にし続けた相手も、「死亡」することによって気にしても仕方なくなったり、終わりにしたりできるってことだ。

 「忘れちゃうスイッチ」はただ入るだけで、それは、忘れてもいいし、忘れなくてもいいし、結局どちらをも選んでいいってだけに過ぎない。

 はたとすると、死にたいってのは、忘れられたいとか、いなくなってしまいたいってことに近いのかもしれないと思うわけだ。忘れられたい。いなくなりたい。



えっ、なんで?


 
それは、忘れられたように扱われたから。いなくてもいいように扱われたからだ。


えっ、何を?


それは、「生を」である。
言い換えれば、「存在を」である。

 北斎はここまで絵が残っていることをどう思うだろうか。私たちのわりと普遍的な感覚で言えば、大切にされていることを喜んでいるのではないか、と想像できる。
 私は、違いないと思う。北斎の思うところと合っていようがなかろうが、なんであれ存在を認めて大切にしようとすることは、怒りすぎはしないし、嬉しいだろうって思う。
 「死んでまで」こちらに起こることを怒るほど、死は寛容でなくない。死は寛容ですべてを包む。だからこそ、いつだって、「今」死ぬ必要はないってことにもなる。

 少しだけ「死」の寛容さについて話す。これは、あくまで「生」を肯定的に満喫するために話すからね。
 「死」は何もかも包む。人は死んでまで嫌な目には合わないと思う。行先は無限の世界ってやつだからだ。何でもありの何でもできる世界。
 正しく生きないと天国に行けないって考えもあるけれど、あまり好きじゃない。ここからいなくなりたくて自ら命を絶った人が、あっちの世界に行ってもいなくなりたいと思ったら切なすぎるからだ。本当は死にたくなかったのに死ぬしかなくて、行き着いた先も死にたくなるシステムだったら、どこに行けばいいんだよって話だ。
 これはこっちで、誰かが誰かに声を掛けて救わなきゃいけないって強く思うための考えだし、あっちにいずれ行くことは約束されているのだから、こっちで一緒に生き抜こうぜっていう励ましのための考えでもある。

 天の誰かさんは、僕らをそんなに悪いようにはしない、と思いたい。
 ただ誰か。誰か人間だけが、誰かを悲しませて苦しませて辛い目に合わせてしまっているのだ。
 気づける人が気づいて動くしかない。本当にそうだと思う。

 中学生が、同級生を何人かでからかう。こんなの日常にすぎない。
 そんな中で、「お前、自殺すんなよ」って声を掛ける同級生がいる。
 大人の手の届かないところで、人間をやっている立派な中学生がいるなと感じる。
 大人も負けたくない、頑張りたいじゃんかって思う。

 声を掛けなければ。なんでもいいから、思いつく本当の言葉を。

 私たちは「誰かの中にいる」と実感できなければ、元気に生きることは難しい。
 反対に、誰かの中にいると確信や、少しでも感じられたり、可能性を感じて希望を持てれば、いくらでも生きられる。
 (また、人は誰かによってしか生かされることができない。言いすぎれば食べ物もしかりである。)

 はじめは、自分を死なせたくなんかなかった。
 「生まれた日から生きたくない人はいない」から。誰かが追いやったのだ。
 
 けれど、誰かが生を否定してくるようになったのだ。はじめは、相手がふざけてる、嫌なことをしてるって頭では分かっている。でも、どうしても改善しなくて。
 そうすると、今度は、自分が悪いのかもしれないって思う。たくさんの人を巻き込んで迷惑をかけるのが申し訳なく思えてくる。
 ふと「あっ、そっか、私がいなければ、全部終わるのか」って閃く。でも「生きたいから」って迷う。大切にしてくれている人の顔も浮かぶ。
 それでも、苦しすぎる日があって「やっぱり、いちゃいけないんだ」って感じる。思い出を見返すけど、それは、これまでの話なんだって言い聞かせる。
 本当はいない方が良かったんだって、怒られたときとか、罰を受けたときとかを思い出して、辻褄を合わせる。でも、それでも幸せだったから、生きられて良かって思うから、ありがとうが残る。生きたかったけど、うまく生きられなかったから、ごめんねが残る。

 「いる人間をいなくしたのは誰か」
 
 だから、いなくなることを選ぶしかなくなるわけだ。

 人の心を捕まえるのは簡単なことではないけれど。時間をかけて、表現して、つかもうとするしかない。
 確かに、あなたがいるってことを表現するしかない。私の中には「いる」って声を掛けるしかない。

 この辺りまで来て、気づいてほしいことは、やっぱりたった一つだ。 
 それは、「人は一人ではない」ってことだ。

 北斎がいかに自分の考えや生をどこまでも伝達しようとしたところで、限界はあって、途中でかかわっている人の感じ方が入っていく。忘れちゃうスイッチが入ってから時間が経つほど、本来の自分からは遠のくところがあるわけだ。けれど、それは人間らしい在り方だと思う。そもそもの北斎も誰かを取り入れて出来上がった個なのだ。その個が延々と個として存在することは言わば不可能って話で、途中から北斎は別の個に取り入れられて、だんだん元々の個から変わっていくのは当然なのだ。
 誰もがそう。だから、その誰かの中に入るってこと、つまり存在しているってことを絶たれたものがいなくなろうとする動きはしごく当然ってことになる。それは、お金の問題でもそうだし、食糧の問題でもそうだ。見守る多くが、生かそうと思えば、存在をありにしようと思えば生かせるし、なしにすれば死ぬしかないのは当然の仕組みだ。

 気にしなければならないのは、「その仕組みでいいのか」ってことだ。嫌なら、声を出すしかない。

 それでもどうしても、私たちは、死の先を考えてしまって、死ぬってことがなんなのか分からないから、考えることをぼやかしてしまうことがある。

 どうしたって、死とは呆気にとられるようなところがあるだろう。死とは実感が沸くまでに時間がかかるところがあるだろう。
 それは、仕方のないことである。死とは生の真反対。全く同等でありながらこちらとは異質価値、真逆の考えの方向を持ったものだからだ。

 けれど、我々はいつの間にか、「生」すら忘れてしまった。だから、真逆の考えも何もわかりゃしない。生きるってことは、幸せに生きることだと思っている人も少なくないと思う。
 それは、それでいい。人権的観点からいくと重要だ。でも、その幸せに行く前の前提に、「生きるって存在すること」だってのがある。そうしないと、幸せに生きられなそうな人は、いなくなっていいって感覚が生まれる。いなくなっていいとまでは思わなくても、仕方ないって思うってことだ。その仕組みをよくないって言おうって思いにくくなるってことだ。

 死とは、生きている人にとって一番遠くに位置する状態。非現実、非日常的なものだ。でも、「すぐ隣で起こっている」。死なないまでも、死にたくなっている人はいくらでもいるはずだ。毎年、自殺者は減るけれど、死にたい者が減ってるかは分からない。でも、声は届き始めたのかもしれない。死にたいで留まれるのかもしれない。もちろん目指すは死にたい者も減らすことだけど。

 そして、すぐ隣でってイメージは大事だ。私たちは、誰かに会う度にこの人が生きているか死んでいるかなんて考えないし、さらに言えば、もしもこの人が死んだらということを会う度いつも常には考えやしない。だから、僕らにとって、死はほど遠いわけで、誰にでも起こりうる身近なものであっても、意識や認識として身近でない。でも、もし少しでも隣の死を浮かべる考えを持っていたら、私たちは少し、目の前の人を温かい眼差しで見つめることができるかもしれない。

 ただ、どんなに真剣に考えるとしても、僕らは決して死がなんなのかには辿り着けないと思う。どうあがいたって生の真反対だから。
 現実の事実として、僕らにとって死は、「想像することでしか、考えることのできないもの」である。繰り返しになるけど、だからこそ、想像して相手を大切に思うしかないのだ。

 これは、同時に。誰かを大切にするのに想像力が必要なことがよく分かる文だなと思う。

 最後に、「人は一人で死んでいくだろうか」ということを考えたい。
 そもそも、一人では生きられない、そして、一人ではいられない。それでも、死ぬとき、人は一人なのだろうか。もう、分かり切っているかもしれないけれど。
 
 人は一人では生きられない。だからこそ、一人になり死へと向かう。だから、死は一人のもの。果たしてそうだろうか。
 だって、一人になったから、いないものとされたから、自ら死を選ぶ人がいるのでしょう?と。

 
 それでも、その人は、本当に一人だったのかな。一人になれる人なんているのかな。
 その人は、一人だと思い込んだ。思い込んでしまっただけではないのかな。
 その人は、周りの人をもう見ないことにしたんじゃないかな。
 
 なんでって?

 それは、周りの人が、自分の生活を変えられる力を持っていると思えなかったからだ。
 私たちの声が届かなかったのだ。人は、正しさで行動するわけでなく、希望で行動する。
 誰にも世界にも希望を感じることがこれっぽっちもできなかったから。選んだ死だ。

 でも、知っておかなければならないことがある。
 それは「人は決して一人にはなれない」ということだ。
 ここで、大事なことは、一人を感じることと、一人かどうかという事実は別ということだ。
 (「続・人間ってなんだっけ」でも、書いているけど)
 
 一人ではないということは、二人以上生きているってことだ。
 生きているってことは、存在するってことだ。
 だとすれば、一人ではないってことは、二人以上存在するってことだ。
 どこに?だれが?
 それは、自分の人生を「生んだ親と誰か」だ。

 私たちは、生きる意味をどこに求めてもいい、何を求めてもいい。
 けれど、これだけは揺るぎなく、また、これ以上の賛美はない。
 私たちは、どこに行ってもここに立ち返らなければならない。

 「人は、一人では生まれていない」ということだ。

 生みたいから生まれたのだ。

 自分の中に誰もいないってことにして勝手に死ぬのか。
 自分に語り掛ける、聞いている声はそれで合っているのか。
 自分が生きたい人生じゃなくて、生きてほしいと思ってくれる人のために生きることはできないのか。
 生んでくれた人もいる。それに、そのとき生まれようとした、そして、実際に生まれてくれた自分のために生きることはできないのか。
受け取るものを選んでいるのは自分だ。

 その場でいなくなってしまうなら。いられる場所を探したっていいと思う。
 あなたを待っている人はいるから。

 あなたは、生まれたときから、ずっと一人じゃない。
 そして、死ぬときも、もうたくさんの誰かの中にあなたはいる。絶対に一人じゃないのだ。
 そして、あなたの中にもいる誰かを、できればあなたと一緒に生かしてほしいのだけど……。
 あなたの中にいる誰かを一緒に殺してしまわないでほしい。

 人は一人では生きられない。
 一人だと感じたなら、死にたくなるのは当たりまえの感情だ。
 その感情はもっていいものだ。肯定される感情だ。生きていれば当たりまえの感情。
 生きている証拠だ。
 そして、そんな人間らしいあなたは、誰がどう考えたって生きていいってことだ。

 誰かに辿りついてほしい。たった一つでなく、何度か何か所かを信じて、話しをしてみてほしい。
 その先に、必ず「生まれてきて良かった、生きるって楽しい、自分の人生は生きるに値する」と思える日が来る。

 私の中には、もう会えないけど、まだまだ「いなくなってない人」が、いくらでもいる。
 私たちは、最後まで生きて、たくさんの誰かの中に在って、また誰かをつなぐ者で在りたい。
 
 死ぬってなんだっけ。
 
 それは、誰かを大切に思って自分をつなぐために訪れるもの。

 本当の本当は死にたくないときには、決して死ぬな。