ミスをしました。。。ハピペンです。取り戻せるだろうか。不安はあるけれど、いろいろ信じるしかない。そして、純粋に謝ろう。ごめんね、子どもさん。。。
巷で「生きるってなんだっけ」と考えることが話題になっていたので、ここで妄想を語ってしまおうってのが今回の内容です。それこそ内容が無いような感じかもしれませんので、ご容赦ください。
とにかくピンと来る共通の一語を見つけるんだ!
そんなことを思って10数年前にひたすら「生きるとは?」を自分に問うていた。
親戚のおじさんが死んでも、自分の中のおじさん像が変わらないこと。自殺した人が前日にすでにこの世にはいなかったような感じがしたという話。そういうことをいろいろ思うと、「生きる」は、心臓が止まっているか、止まっていないかを飛び越えていると思った。私が考えたいのは、医学的な「生と死」のことではないのだった。
「生きる」ってのは、間違いなく「その人が生きている」ってことだ。じゃあどうしたら「その人が生きている」と言えるのだろうか。仮に、その人のことを誰も認知できないとしたら。この世界にいるのに、誰にとっても「いない」として扱われていたその人は生きているのだろうか。生きているのだと思う。その人にとっては、生きているのだと思う。この辺りに答えのヒントがある。
「生きる」は、自分一人だけでは、客観的に証明できないということだ。たとえば、電話帳を見て、適当な名前を選んだとして、その人が生きているか生きていないかわからないことに似ている。さらに、それが仮名だとしたら、存在するか分からない。そういう感覚。もしいなかったら「生きていない」とされてしまう。「生きていない」と言えるだろう。
だから、私にとって、私のひいひいおじいちゃんは「生きていない」。全く知らないからだ。しかし、おじさんはやっぱりあの日の感覚と変わらない。会わない親戚ってくらいで、本当に死んでんだか死んでないんだかさっぱり分からない。
はたまた、余計な情報を付け足すとすれば、死んだ父親に人生を縛られているという人の話を見たことがある。未だに否定されるのではないかと怯えてしまって、自分らしい選択ができないのだそう。なるほど。この人にとってまだ父は生きているのだなと感じる。心臓が止まっていたとしても、十分に生きているわけだ。しかし、父はそんな風に影響したかったのだろうか。父にとっては、自分の子どもをそういう状態にすることは「生きていない」と捉えるかもしれない。
こんな風に「生きる」はいろいろある。自分にとって、他者にとってのさまざまな生きるがある。こういう感覚を一撃で貫きたかった。ピンとくる言葉を手に入れたかった。
そして、ある日ひらめいた。
生きるってのは
「存在する」ってことだ、と。
じゃあ「存在する」ってなんだ?
となるとここで打ち止めである。
この問いは「究極の問い」とされる。
生きるってつかみどころのないものだなあと思う。答えがないということは、全員が仮の答えで生きていくということだと思う。言うならば、「生きる」っていうのは「x」のようなもので「変数」ってことだ。なるほど、その時々で色を変えるということか。確かにそうとも捉えられるなあ。
だから「生きる」には、何を代入してもよい。生きるってことは、本来は自由化されているってことだ。人それぞれの生きるを楽しめたらいい。
というわけで、そこから、ハピペンは「存在すること」=「善」なのではないか、と考えるようになる。
ビッグバンが起こした「在る」という現象を自由に楽しむこと。誰かの在るが失われないようにみんなで生きていくこと。
つまり「存在を持続すること」が「善」であり、「生きてさえいれば人は必ず幸せに成功できる」と考えたのだった(この考えで自殺を減らしたかった)。
そこからの
「かならず幸せになれるいきもの」
なのです。
今、目の前にあなたが在るということを完全肯定。ありのまま。あなたがそこに在ることが尊い。そういうことを考えて生きている。
しかし、それにしても。うまくいかないこともあるなあ。そう考えていることと、他者にそう感じてもらえるように対応できるかっていうのは全く違って、自分で自分が苦しいわ。
では、また☆