成長ってなんだっけ。
成長ってなんだっけって言いつつ、辞書的な意味でいくと、自分は「発達」について語りたいのだと分かった。
(goo 辞書)
【成長】
1 人や植物が育って大きくなること。おとなになること。
【発達】
1 からだ・精神などが成長して、より完全な形態や機能をもつようになること。
2 そのものの機能がより高度に発揮されるようになること。
成長って言ったとき、その意味に発達を含んでいることも少なくないと思う。
発達の意味に成長が含まっているから当然なのだけれど、成長と言ったときには、身体と精神の機能が高度になったり、大きさが変わることを指す。
成長の面白いところは、いくら客観的に成長しているという事実があったとしても、それに「気づくことができなければ、その成長はなかったことになる」ところだ。
目に見える成長は捉えやすいとしても、その中身は見えないため成長が捉えにくい。外身よりは、内臓の方がどう育っているかよく分からないし、精神ならなおさらってことだ。
成長に気づくってのは、「自分」でも「他人」でも誰かが気づかなければ成長しているかは分からない。また、表出されたものを成長と捉えるかどうかにもよる。本当は、成長していたとしても、気づかれなかったり、成長と捉えられなかったりするわけだ。
それでも、成長のない人間はいないし、人間は誰でも必ず成長していく生き物である。成長のあるないは、「成長をどう捉えるか」と、「その成長を捉えられるか」にすぎない。
考えたいのは「本当は成長していたとしても」というところだ。「自分の実際」と、自分の認識している自分と、自分以外の認識している自分が違った場合、自分というのは違った見積もりをされるってことだ。
成長の部分で、本当の自分とかけ離れた見積もりをされると、自分としての自分を生きにくくなる。「私は、本当は」という気持ちが黙殺されるのだ。
また、人は成長したい生き物でもある。そのエネルギーを抑え込むことは難しいし、とても不健康だ。けれど、あなたはあなたが思うように成長すべきではないという判決がくだされることもある。社会っていうのは、自分が生きやすくなるためだけには存在していないのだ。
ただ、社会の要求に合わせるっていうことは、ある程度求められないければならないかもしれないが、間違った社会、枠組み、コミュニティの中で成長が妨げられるのは間違っていることだろう。
たとえば、この人はこう成長すべきだというコミュニティ、この人は成長しないと捉えられるコミュニティなどだ。
塔の上のラプンツェルを例に出したい。ラプンツェルは、本当の母ではない者に、母だと思い込まされ、外の世界は危険で恐ろしいところだと教えられ、塔の上で暮らしている。18歳になった彼女は塔から出ることを要求するが、それは頑なに阻まれてしまう。
18歳の人間が家の中で暮らさせられ続けることは、果たして健全なのだろうか。自明のことだが不健全と言わざるを得ない。これは何も、子どもの要求をなんでも許可しろというわけではない。ラプンツェルの母のように、子どもを危険で恐ろしい目に合うかもしれないところに行かせたくない気持ちは大切だし、無茶な行動を阻む愛は必要である。しかし、嘘や行き過ぎた考えはよくない。きっと、子どもはみんなもやってると言って戦うに違いない。
けど、それが成長のためならば少しは考えなれけばならない、安全な可能性が高まる条件を出していろいろ挑戦させたらいいかもしれない。
今の自分が求めるべき、認められるべき成長がなんなのか分かることが大切だ。実際自分の思いを越えて、そこからある程度外れないために法律が整備されていると言ってもいいだろう。
義務教育に背きたい気持ちを持つ子どももいるのが事実だし、どうして何が楽しくて進学をし続けなければならないのか、学校に参加しなければならないのか、悩んでいる子どももたくさんいることだろう。
それは、多くは、この整備の中で育つことで、必要な成長発達を得られ、社会で心地よい人間として生きられる可能性が高いからだ。ただ、この整備された学校などの教育と、現実の人間に必要な力にギャップがあることはある。
私たちは、社会で健全に生きることよりも優先しなければならないことを抱くときもあるし、その中で自分を押し殺してまで生きたいとは思えないときもある。
どうすれば、この地球で、心地よく生きられるのかってのは、全人類の課題だ。
そして、「気づかなければ成長にならない」という話に戻す。
この仕組みは、社会に大して自分を示す際に少し厄介なところがある。
たとえば、どんなにその場で活躍しようが、その場でやりくりしていける力があろうが、どうしてそれができるのかの「能力の詳細」を捉えることができなければ、説明できないからだ。
なんの能力が、どんな気持ちが自分を自分たらしめているのか、自分で気づくか、他人に気づいてもらって理解しなければならないのだ。
その能力が能力として認められるには、事実と根拠となる意見の二つが必要だ。ただ、その評価は主観になる部分もあるので、一般的にどう伝えるか、表現するかっていう力も必要になる。
そして、「気づいて成長を捉えた後」、必要になることは、今言ったように、その成長を「形化」することである。いくら、どんなに成長に気づいたとしても、その成長が言葉などの別の人に伝えられる形にならなければその成長はないってことになる。たとえば、社会との接点で自分の成長を伝える場合、目や耳で捉えられる表現が求められる。
ただ、大切なことは「成長のない人間はいない」っていう事実だ。
人は必ず成長している。社会にとってつまずきのある時期や段階もあるかもしれないが、その間過ごすことで手に入れられる成長がある。
もし「成長がない」と感じられても、その間気づかなかったのだから仕方がない。今、気づきさえすれば、その時期や段階を成長に転化することができる。
そして、それを形にして捉えることだ。ある時はこう思っていたけれど、こういう経験によって、こう思い、こういうことに気づけたという事実と根拠のある意見に変え、成長し、今の自分が出来上がったことを伝えるのだ。
いくつかは、認められない場合もあるかもしれない。けれど、チャンスのない人間はいないし、大切にされない人生は存在しない。それは、たとえば、自分が自分を大切にしなかった時間のツケだ。
けれど、自分の考え方によって、気づき方によって、その時間を埋め合わせることは可能である。
成長のない人間はいない。一般的な年齢に相応しい優れた成長具合というのがあるかもしれないが、それは、その人それぞれの気づき方次第だ。自分以外の人間もある成長を成長と捉えられない人もいれば、成長と捉えられる人間もいるのだ。そのギャップを埋めることは、追求し続けるしかないことだが、それこそ、ある意味人付き合いの醍醐味と思って、前を向けるといい。
どんな状況も、気づきさえすれば、成長への兆しとなる。流れの最後には必ず成長が待っているのだ。生き続けてさえいれば、必ず日溜りのある場所へ押しやられるときは来る。ラプンツェルのように、たとえ18歳まで日蔭に押しやられていたとしても、手に入れようとして、そして、その働きかけが適うことを望んで生きるのだ。
そして、何より私たちが気づかなければならないことは、人間は本来成長したい生き物だということだ。
世の中に提示された条件に屈して、自分は成長できない人間なのだと感じることがあるかもしれないが、それは大いなる気のせいだ。
それは、あと10分向き合ったら、乗り越えられた問題かもしれないのだ。可能性の芽を摘んだのは自分でしかないのかもしれない。もちろん、何者かによって、どうしようもなく元気を奪われて、もう成長する力なんて出てこないってときもある。
けど、その自分でできること、その自分がそれでもしたいと思えることに目を向け、成長できる方をなんとか掴み取るのだ。「成長する方」という意識を持って、今、出来事を選んでみるってことだ。
もう一度言うが、最後には、必ず成長が待っているから。生き続けてさえいれば。
そもそも、なぜ自分は食べ物を食べるのか考えてみるといい、それは、本能のレベルで、自分は自分を成長させたいという欲求があるからに他ならないだろう。
自分が胎内で育った時の、生まれたときの、成長したいという莫大なエネルギーが自分にはあるということを忘れないでほしい。
そして、その年代で何ができるといいのか、なんてのは、文化や時代、地域によって違うことだ。
地域どころか、あるコミュニティの中で適いさえすれば、そこに入ることは可能だったりする。
私は何もせず、無条件に入れるコミュニティに入りたいんだ。そういう気持ちもあるかもしれない。けれど、それほど自然と一体になったコミュニティは現代にはそうない。
それは、そう思わされてしまっているのであって、本来の自分は成長したい方向があったのではないか、と自分に問いかけてほしい。
他に「こうはなりたくない」というのでもいいかもしれない。それを回避する方向への成長はあるだろう。
はっきり言って、この世界が手に入れたいときに手に入れたいものを手に入れられる環境だったらよかったのだけど、どうもそうはいかないのが現実だ。
もし、そんな世界だったら、私たちはミルクがほしいときに泣かずにすんだ。
けど、泣くしかなかった。そして、今の自分もその延長なのだ。
自動では手に入らない。
それでも、必要な環境は用意されはじめている。
すべて自分で動かなければならない気がするのは気のせいだ。
そこまで自分が選んできた人生を何も疎んじる必要はないのだ。いくら蔑みの目で見てくる社会"人"っていう枠組みの人間がいたとしても、それは地球から追い出される烙印ってわけじゃないんだから、多少のダメージはあっても嘆きすぎる必要はない。
今のその位置から得られる成長があるはずだ。
自分を大切にする感覚を忘れないでほしい。
自分が「よりよく生きていくために必要なものを与える」感覚だ。
自分に「よりよく生きていくために必要なものを与える」のだ。
それは、いわゆる「知識」ってことかもしれない。そこから得られる「資格」ってことかもしれない。少し頑張りすぎた後なら「休養」かもしれない。なんでも気づけたものを、与えられたらいいと思う。
究極的には、自分を成長させるのは自分なのだ。ミルクが与えられたとして、それを飲む選択は自分にしかできない。そのミルクが与えられないんじゃないかって、意見もあるだろうけれど、ミルクのある場所に行くってことも大切だ。森の奥深くで泣き続けていれば、泣き続けて終わりかねない。今あなたがいるそこは、森の奥深くではないか、考える必要があるし、ミルクを得られる場所は必ずあるってことを忘れずに勇気をもって一歩を踏み出してみてほしい。
最終的には、自分の成長は自分が選んで起こっているってことだ。
選ばされていた場合それまでの成長が崩れることもあるが、それをそこまでやることを選んだ自分がいることは誇りに思ってほしい。
けれど、気づいたのだろう。だから、別の選択肢に気づいて、それを選んだのだろうから。
その選んだものが、成長として合っているか、合っていないかの判断をしたいって部分はあるかもしれない。
成長の対義語に決定的なものはないのだけれど、以下の二つが当てはまると思う。
【老化】
1 年をとるに従って、肉体的、精神的機能が衰えること。
【退行】
3 生物の発達や進化がある段階で止まり、むしろ元に戻るような変化を起こすこと。
簡単には解決できない部分として、成長の良し悪しは、
「一般的な部分」と「個人的な部分」の両方で判断する必要がある。
たとえば、どちら部分のどのような成長があると、自分がいたいコミュニティの中で生きやすいかってのは違ってくるってことだ。
会話がしたいから→車の免許を取るってことが会話のきっかけになって、選んだ成長が相応しい場合もあれば、
車の運転がしたいから車の免許を取るために→会話を練習するのでは、単純に言えば車の免許とは程遠いかもしれない。けれど、その会話を誰かとすることによって、車の免許の獲得につながる可能性はあるかもしれない。
これぐらい今の自分に必要な成長ってのはややこしくて、自分自身や自分以外の人々の評価や気づきが必要になることなのだ。
求めている成長に対して、社会的に必要な能力と、自分が必要だろうと思っている能力にはギャップがあるってことだ。
だからこそ、自分の人生が自分の考えだけで出来上がっていると思うよりは、自分自身っていうのはそもそもいろいろな人の考えで成り立っていると意識して、自分自身から湧き出てくるものと、社会である自分以外の人間の両方をミックスして、自分や自分の成長を選択できるといいだろう。
どうしても、自分が必要な成長を手に入れにくく、生きづらさを感じる場合は専門家の力が必要だ。
専門家に出会うことが、ミルクを得られる場である可能性もある。
これも「自分の成長」というキーワードを考えたとき、自分では思いつきにくければ、当たりまえに他人を介せばいいだけの話だ。
だから、「自分」か「他人」が気づく必要があるとそもそも言っている。これは、同価値である。自分で自分の成長を認識できた方が偉いとか偉くないとかはないのだから。
最後に。
どんな人間も、赤ちゃんときにミルクを求めてミルクを飲むことを選ぶのと同じくらい当たり前に、「成長を手に入れようとさえすれば」、今の自分に必要な成長に気づき、その成長のある方へと導かれ、最後には必要な成長を必ず手に入れることができる生き物である。そういう仕組みの中にいると思った方がいい。
ただ、泣きもしなければ、求めなければ、成長は訪れないし、訪れたとしてもそれに気づけないだろう。
偶然手に入れるとしても、その気づける感覚がなければ、気づいて掴むことはできない。
私たちは、それが何か分からなければ、それが何か分からないのだ。
自分の生を見つめていなければ、それが、自分の成長にとって、チャンスなのか、不要な機会なのかも。
一気にまとめると、
成長は、機能の高まりのことだ。
その機能の高まりは、誰かに認識されなければ、ないものになる。
その機能がどんなものかは、自分で捉えてもいいし、他人が捉えてもいいものだ。
その機能があることに気づけたら、それを形化していくことだ。
そして、その機能を使って生きることは、自分を活かすってことだ。
成長ってなんだっけ。
それは、誰もが誰もがなりに、この世で活躍できる場を見つけ、そこに辿り着くための仕組みのことだ。
今、それを選んで得た成長が、自分の道標になる。