病み上がりの「ハピペン」です。どーもです。だからってわけじゃないけど、ただぼやきます。
たまに、付き合うってことを考える。
相手のそれに合わせるってことだろうか。
付き合う。
付き合ってやる。
付き合ってもらう。
付き合わせてもらう。
付き合ってみる。
相手を受け入れるような。
相手を「ありのまま」でいさせるような。
でも、ストップして、エゴを出したくもなる。
出すのは大事だ。
無意識に起こっているよくないことを気づかせて終わらせたくなってしまう。
そのためには、巧妙なウリが必要なのかもしれないのだけれど。
そして、それがどんな結果を生むか、それこそ、それでも「付き合えるか」が付き合いの真骨頂だろうね。
「人は愛のある生命を否定できない」
それでも「否定」したいとしたら、それは「愛」をなくしてしまったってことだろう。
もちろん仕事では、それは違うわけだけど。
そんな日になんとなく気になるセンテンスに出会う。
ライフワークのダークサイドについて
君たちが愛する家族と、君たちのあいだに光と闇の境界線が現れたように感じることだ。
そのことに戸惑ったり、『どちらを取ればいいのか?』というふうに、人生最大の選択を迫られる人も出てくるだろう。
自分だけが光の世界にいて、家族や愛する人を人質に取られたように感じるはずだ。
そのとき何を選ぶのか、それは君たちの選択だ。
覚えておいてもらいたいのは、どちらかを選ばなければいけないと感じるのは、ただの幻想だということ。そして、君たちの中にある特別でいたいという思いが、その幻想をつくり出しているということを思い出してもらいたい。
『ユダヤ人大富豪の教えⅢ』P.211
自分の選択であること。
どちらかを選ばなければならないことは幻想であること。
自分の特別視。
そんな「選んだだけで終わる絆」って何なのかって話とも思う。
それは、全身全霊でその人を愛せていなかったとか。そのひとの「在り方」と付き合うことができなかった。その人に付随する何かと付き合っていたってことだ。
たとえば、テレビを見たい、と、見たくないがあって、見ていた人は見なくなると本当にその人でなくなるかなあ、ってイメージ。
そうじゃなくて、「その人」と付き合うこと。
だとすると「何がその人か」。たとえば、それに付き合えず、それをやめると、その人は本当にその人でなくなってしまうのかが気になる。
どうしても譲れないものを譲らないとして、いくらでも検討はしていいよね。
付き合ってもらいたいとして、じゃあこっちは何に付き合おうか。
そういう話ができればいいのかも。
昨日は、ふらふらだった。熱を下げなければ。測っていないけど。
scansnapを買った。書類とおさらばしたい。
風邪のときって、思考がネガティブで大変だよね。金曜の飲みからはじまり、土曜、日曜とグダグダでその考えすぎも引きずっていて辛かった。