1か月ぶりに早起きができた!!「ハピペン」です。
いい!成功が願望に勝ると自尊感情が高いとしたのはジェームズという人。まさにそういう感じ。
しかし、本当は「これでよい」「それでよい」っていう自尊感情の方も大切。この辺りの知識を整理したい。
さて、朝からfacebookのタイムラインを見てすっかり刺激を受けてしまったのだけれど、いろいろなことを思い出してリンクしたのでそれを書く。
はじまりは、叫び
ある年の「インクルーシブ教育推進フォーラム」で「原則通常学級」が叫ばれていた。
リーフレットにある
- できるだけ、地域の学校で学ぶためのしくみづくり。
- できるだけ、通常の学級で学ぶためのしくみづくり
- 地域で共に生きるしくみづくり
これを見ると「同じ内容」よりは、まず「同じ場」なのかなと改めて思う。
これらに付いている「できるだけ」を取ってほしいということも叫ばれていた。
どうしてか。
これを説明できるほど人間を理解していない「ハピペン」です。
しかし、一つは「過度な負担」によって物理的に無理な可能性があるからだろうなあとは思っていた。
過度な負担
ある人に配慮を行うことで、他の人たちの生活や活動が困難になるほどの影響が生じたり、あまりにも大きな負担を伴う場合は、「合理的」ではないとして、行政機関・事業者はその配慮を断ることができます。その配慮が「過度な負担」かどうかは、以下の観点を考慮しながら、行政機関や事業者が、個別の場合に応じて判断すべきとされています。
①事務・事業活動への影響の程度(事務・事業の目的・内容・機能を損なうか否か)
②実現可能性の程度(物理的・技術的制約、人的・体制上の制約)
③費用・負担の程度
④事務・事業規模
⑤財政・財務状況
ただし、「過重な負担」を理由として配慮を断る場合は、配慮を求めた本人にその理由を説明する義務があります。また、負担が少ない形で他の配慮が実現できないか検討することが望ましいとされています。引用:
文科省の文では、
「学校の設置者及び学校に対して、体制面、財政面において、均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」、と定義した。
引用:
教室から名前が消える
ある理由で、教室のロッカーや当番表から名前が消えたとしたら。
どう思うだろうか。
その整備が「過度な負担である」として、説明がつくだろうか。
移行時における情報の引継ぎを行い、途切れることのない支援を提供することが必要である。
という観点からすると、「学校としての見解」をもちたい。
たとえば、先のリーフレットには、
共に過ごすことによって「相互理解」を生み、障がいのあるなしにかかわらず、集団の中で互いを理解しながら、社会性・思いやりの心を育むこと、誰もが相互に人格と個性を尊重し、認め合う社会性を育むことが掲げられている。
たとえば、教室から名前が消えたとしよう。
それは、そのクラスでは「相互理解」や「社会性・思いやり」、「誰もが相互に人格と個性を尊重し、認め合う社会性」を育むことよりも、また別の合理性を担保したという解釈で合っているだろうか。たとえば、円滑さや効率?
そのクラスでは、教科で身につく内容が重視され、上に挙げたような他の力は二の次ってことでいいのだろうか。
教育でどちらが大事かっていうのは、本当に担任裁量でいいのか?
この学校は、そういう学校ですと、管理職たちは説明できるってことでいいのだろうか。
私は、ある人間がいないことで、成り立つ「相互理解」や「均衡」は、フィクションだと思う。
もし、教師が、社会はそうした区別によって枠組みが作られていて、その社会を生きる社会人になっていくのだから、リアリティのあるフィクションを再現した教室で生活することが「人格の完成と平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」とするならば、もうそこでは引き下がろう。
まだ「過度な負担」を振りかざして反論されたわけではないけれど、そう解釈することもできて「合理的排除」が起こる可能性もあるから「原則を通常学級」にした方がいいのだなと思った。
前提がそうだから、名前を入れるのが自然ではないのだ。
籍はそっちですよね。だから、名前は"入れてもらっている"のだ。
この区別を、私は、実に差別だと思う。
当事者側は「できるだけ」を信じてのんだってことだろう(もうそれが発行されているから)。
しかし、そういう人がいて、「できるだけ」によって脅かされるなら、原則を変えた方がいいなと感じる(そのためにどんなアクションをし得るかって思いつけないのだけど。もちろん、校内では来年度に向けて声を挙げている。そんな一校ずつ啓発するしかないのか?)。