朝走らずに済む人間になりたい。「ハピペン」です。なんだろうなあ。ギリギリばかり。それこそそういうパターンなんだろうなあ。別の習慣を持ち込めるだろうか。
さて、なぜ、ふざけたくなるのか。
つい、チャチャを入れたくなる。
真剣に偉そうに自分は正しいみたいに語っている人を見ると特に、余計にそう思う。
ある意味、緊張状態ほどチャレンジングかもしれない。
昨日、ふと、気づいてしまった。
「あの人前ではふざけるのはよそう」と考えている自分に。
私は自然にというよりは、考えてふざけているようだった。
そして、その「やめとこう」と思う相手は、自分の調子のいいときはふざけるくせに、他の人の場合は、今は違うなどといって、コントロールしようとしてくる相手だったのだ。
気分や内容、TPOによって勝手に基準があり、人を判断する。
そういう人の前で私はふざけることを怖がる。遠慮する。やめてしまう。
そのふざけたかったり、ふざけたくなかったりの傾向は、小さい頃の経験が関係するかもしれないと思った。
父の前でふざけられなかった、でもふざけたい、私はふざけていい存在なのに!という謎の証明行動から生まれてしまっているかもしれない。
私のふざけていい場が増えるほど、ふざけを許さなかった父を間違った存在とできるということだ。
実にくだらない。
そんなことに翻弄されて、私は、ふざけ続けているのかと思うと本当にアホらしい。
その傾向は、20歳くらいから強くなってきたと思う。
今も隙あらばふざけている。
パートナーにそのことを話すと「そのふざけはなんか悪いのか?」と言われた。
私は、動機がアホらしく、どうでもいいパターンが自分にあることに嫌気がさすのだが。
パートナーは「何かいいことがあるからふざけるのではないか」と言った。
悪いことがないから、ふざけるってことだ。
そこには、父の文脈を越えたものがあるのかもしれない。
発生はそうだったとして、それが続くのは、デメリットに気づけていないか、メリットがあるからのどちらかというのは、その通りだろうなと思う。
さて、なぜ、ふざけたくなるのだろう。
今日、子どもが連絡帳を書きに交流級へ行った。
ヘルパーさんが見に行くと、ちょうど廊下から戻ってきたらしい。
「ふでばこもっていかないで鉛筆どうしたの?」と聞くと
「A先生に貸してもらった」と返ってきたらした。
「ちゃんとありがとう言った?」
「うん!」
本当かさらに聞く「誰に?」
「A先生に」
「本当?」と言うと、スタスタ戻っていったという。
そのとき教室と真反対の階段からA先生が来たらしく、子どものA先生にありがとうを言ったは100%嘘だと分かった。
教室でその話を聞いて、私も問い詰めた。
「鉛筆借りたの?」
「うん!」
「誰に借りたの?」
「A先生。」
「ありがとう言ったの?」
「うん。」
「誰によ?」
ここで子どもは下を向いた。
ん?
ボソッと
「水道の中で……」と言った。
私はすかさず
「んだよそれ!新しい小説のタイトルかよ!」とちょっと笑顔で言った。
それで、ヘルパーさんは、30秒くらい下を向いて笑いを堪えていた。
間と、確かに感と、意外性とがピタッと決まってしまった。
本当にすみません、たまにふざけて。
思えば、年々「えっ何言ってんの?」が減ってきたように感じる。そんなの頑張って何がしたいのか、わけがわからないけど。もちろん失笑も満載。気をつけなきゃと思う。
ただ
「笑う人がいなかったら、私はふざけるのをやめるに違いない」
とは思う。
ね。
ほんとに、不躾で、不適切ですみません。
周囲の関係者の皆様。いつも、温かく見守ってくださって本当にありがとうこざいます。