帰り道。風が暖かい。新風。ハピペンです。
子どもが作ってくれた菜根譚カレンダーが、毎朝ジャブをよこす。
13日「できることからはじめよう」
14日「まちがっていたらすなおにあやまろう」
はい。すみません。
道徳的判断の方が、人はストレスが少なく、実行しやすい。自分の感覚よりも。
いいことが外部に明文化されているのは、行動を起こすためにはいいのかもしれない。
その内面が伴うかは別として。でも、少なからず内面も伴っていなければ行為は起こらないと考えれば、心は動いていると捉えれば、悪くはないように思う。
今日は朝からとてもモヤモヤしていて。
一つはやろうとすることが、思ったより思うようにできないからなだけだ。
まあ、それもやってみたからこそ分かることで、何かやり方を変える必要があるなあと思う。
そんな中読んでいる『なぜ、エピソード記述なのか』。
これは、これまでの自分が大切にしたいと思っていたこと。それにもかかわらず大切にできていなかったことを示しくる。
自分のそれは、さもフリだったのではないか。と思わされる。疑いたくなる内容。
「人間を見ているようで見ていない(かもしれない)自分」と向き合わされる。
それは「エピソード記述」が、『人』を見るためのもので、それこそ私は『行動』を見ていて、『人』を見ていないのではないかと思ってしまったからだ。
私は、行動が変容しないことを子どもや家庭のせいにするのが嫌だ。できない姿に叱責を繰り返す大人を見ていると苦しい。
もう少し言い直すと、その場での変容でしかなく、繰り返しミスをして再び叱責されているのを見るのが苦しい。
それに対して私は「指導次第で子どもは変容し得る」ということを考えていた。
しかし、ここに挙げたどの考えも「行動中心主義」でしかない。
「行動中心主義」は、私の自分に対する違和感の正体の一つだと思う。
そもそももっていたものなのかもしれないけれど、行動の変容を求める大人たちといることで、私の評価の軸も自然に行動の変容の枠にとらわれていったかもしれない(人のせいにしすぎ)。
『なぜ、エピソード記述なのか』を読んでいて、改めて『その子』を見ているかという大きな課題が突きつけられた。
教育や子どもを尊いとするならば、私はもっと子どもを見たい。
そして「もっと目を開いて子どもと向き合おう」と思った。これは文字通り。
目をもっと開く。細めない。相手を見る。
こうした感覚が生まれたの背景に「来年もハピペンいる?」と子どもに聞かれたことがある。
私は実習の時から(それは学童にいたときに感じたからずっと)そうなのだけど、その先生がいなくても続くことを大切にしてしまって、いなくなれるような距離をとってしまっている。
それは自己卑下だと思う。
自分にそこまで重きがあると思っていない(部分がある)。でもそれって、不誠実だなと。子どもはオレが信じないオレを信じている。そんなのってなんか、怖い。
それは、同時に自分が本気で子どもに応えていないのではないか、という考えに至ってしまった。
自分は何人もの大人を批判的な目で見ていたけれど、その批判の目は行動を変容させられないことに対してだと思っていた。
しかし、他人は鏡というように、私はその中に自分を見ていたはず。それはなんだろうか。と考えを巡らす。
だから、違った視点で、変容を生む方法を考えた。
ただし、それはある部分においてフェイクだった(すべてではなく、もちろんそうした部分もあるとして)。
私が周囲の人に抱いている違和感は、実際は「行動を変えられる・変えられるない・変える方法」などではなく、そこにある憤りに自分が写っているとしたら、それは「変容にフォーカスしているということ自体」にだったのだ。
(これぞ、ミスリード)
私は、そこに憤っていた。行動変容で子どもを見ない自分を知りたかった。
それで、イライラしていたのだ。「もっと子どもを見ようよ!」とよく思ったり、言ったりしていたが、それは、おおいに「自分への言葉」だった。
(もちろん行動中心主義で幸せになれる子どももいるに決まっているが)
そうして、自分は子どもを見られていないことに気づく。
それを、少しでも補完するための方向に自分は動いているなあと思う。
本当に(本当になんてないとしても)子どもを見るにはどうすればいいのか?を考えるためにうろつく。
とにかく温かみをもちたい(もちたいって思うとなくなるようで、あるってしてしまった方がいいのかもしれないけれど)。
それで、灰谷健次郎や林竹二を追いたくなるのだった。
もっと目を開いて。
もっと目を見つめて。
子どもを見る。
子どもの息づかいを見る。
子どもの姿が織りなす心を見る。
うまく言えないのだけど、俯瞰ベースの熱さになっていて、熱さベースの俯瞰でないというような感じ。
熱さベースに少し転換したいと思っている。