愛しているからそうなのか。愛していないからそうなのか。ハピペンです!
自分をコントロールするほど、自然にのめり込んでいない自分に違和感をもつ。
本物はもっと自然に愛でているのではないか。と思ってしまう。
図工の作品バッグに絵を描く時間。
今日、私が、ペンギンが描かれているパーカーを着ていたために、「ペンギン描く」と言われる。
その子は、四月の授業参観に、象を描いた。それを見て親に「絵を初めて描いたと思います」と言われた。
そういう子が自分から描きたいものを選んで描く。とてもよく見て描いていた。移動すると「見えない!」と追ってきた。
周りの子が「Aくん、うまい!」と驚く。
写実的ってことではなくて、その子が集中して本気で描いている姿を見ていてそう言うのだと思う。
私もその子にしか描けないものを描いている。写メを撮りたい!!と思った。
ここの子たちは、へたとか、うまくないからとか、言って描くのをしぶりながら、でも見てほしくて「ね、下手でしょ」と言って見せてくる。
だから、前の子が描いている絵を真似る。安全策。否定されても、全部自分の作品じゃないから。
子どもたちがよく言う「絵ーーーー( ̄◇ ̄;)」である。
私は「上手いとか下手とかいいわ。ただ、Aくんにしか描けないものを描いてる。それは、本当にすごいと思う」と言った。
ペンギンを描いている子どもは「俺、さすが!」とふざけていた。
でも、その後が響く。
「もう一匹描こうー!」と隣に描きだした。
出来上がると。
大きい方を指して「こっちがハピペンで」
小さい方を指して「こっちがAくん」
と説明した。
1年間の人間関係の集大成かもしれない。
他の子も、私との関わりで知ったことを表現してくれている子がいた。
その年の幸せがバッグに描かれていく。
センチメンタルなのは、私はそうやって、描きたくなるほど、その子との関係を心に携えているか。ということだった。
汎化と思って、少し距離をとる3月。
それは、自立に向けてとかいろいろな大義はある。
でも、なぜセンチメンタルになるかといえば、その準備がまだ子どもに出来ていないのではないかと気づいているにもかかわらず、気づかないふりをして、しがみつく手を振り払おうとしているからだ。
その子の中に私はいる。
私の中にその子はいないことにしようとしている。
それは、愛なのか愛ではないのか。
うまく表現できないのだけど。
「私は君の中にいるから、幸せに生きていってほしい!」
そんなことを思う。
拒まないし、私は、容易に君の中にいられるほど、君といたと思う。
離れても大丈夫。
それなら
そう信じて、お互い前を向こうじゃないか!