かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

141日目:良いと思ってやれているか

「yes when yes,no when no.」ハピペンです。

 

何が自分をポジティブにするのか?

というよりも、最近のネガティブだった状況を観察していたおかげで、今自分がポジティブであるということが認識できるようになってきた。あと、少し沈むなあ、など。

 

これは、大きい。実はこれまでのほんの少しのネガなんかは気にしなくていいレベルだったのだと分かる。私はやたらに、ネガティブになることに慣れすぎていた。今、小さく一つの懸念があるが、たちまち収束する時がくると思うのだ。乞うご期待。それを、ネガティブのカテゴリーに入れなくても通り過ぎるか試してみようと思う。そりゃ、当たり前で、どなたにも日常があるわけで、四六時中私のことを考えている人が恐らく皆無なように、私が気にしすぎたところで、何も変わらない。向こうが忘れたり、心変わりしたり、解決したりすることがいくらでもあるのだと思う。

 

というわけで、平穏ってこういうことね、という感じである。ちょっとのネガティブは日常的なものであるし、気に留めすぎなくていいことなのである。飛躍して、結論を出せば、これまで乗り越えられなかった以上でないネガティブならば、恐れることはないということだ。その感覚でいっていいとしたら、経験値がそこそこにあるので、ほとんどの日々が通常営業になるだろうと思う。

 

たとえば、今年は初めてのことが多すぎた。しかし、10月からは18時ごろに帰れている。逆に向いているんじゃないかも思うほどのさばきっぷりじゃないだろうか。

 

そして、そんなポジティブを観察できる自分は、何に気持ちをポジティブにしてもらえるのだろうかという視点で気づいたことがある。

 

  1. 自分がポジティブだったときの記録に触れる
  2. 自分が正しいと思う選択をする

 

今のところ、この2つがある。

 

「1」は「自分の笑い声」とか、やたらテンションが高いツイートなんかを見て気がついた。くだらないことで笑っている自分に笑えてしまうのだ。定期的に「120%の人」に会って、フリートークを録音しているのだけれど、それを聞き返していて笑えた。気持ちが勝手に明るくなった感じがした。自分の笑い声って、自分をポジティブにするかもしれません。

 

「2」は、今日、遠足の引率で足をくじいた自分のクラスでない子をおんぶして思ったこと。いろいろな見方があって、たとえば、自分のクラスの子がこれまでしてもらったことないであろう最大限の介抱を受けている他のクラスの子を見てどう思うんだろうか、とか。その保護者はどう思うか、とか。歩かせればいいのにと担任は思うかもしれない、とか。いろいろなことがよぎるが、そこにおいては、私は自分の正義で良かったと思っている。その子は、おんぶしてもらって良かったと思っていると思う。たとえば、大人って素敵だって少し思ってくれたかもしれない。その子が辛いとき助けないで大人がある意味なんてあるかよ!って思った。余計な心には従わないで、正しいと思うのことをする。それができた自分は多少誇らしく、生きている感じがした。同時に私はやっぱり直接的に救うのが好きなんだとも思う。ちょっと危険な感覚だけれど。明日その行動の選択については、子どもたちにも話そう。

 

問題は何か?

一番の問題は、インベスターZに書かれていたセリフなのだけれど、バフェットいわく

「リスクとは自分が何をやっているのかわからない時に起きる」

自分の「運命」を他者に委ねてしまった人の末路とは?――マンガ『インベスターZ』に学ぶビジネス | リクナビNEXTジャーナル

これは、すべてのことに当てはまるなあ、と思う。

 

「自分が何をやっているかわからない時」というのは、どういうことかと言えば、説明ができないことをしてしまっている時ということだと思う。なかなか変わらない学校教育の中では、「そういうことだからそうする」ということだらけで、気づくことができないことが多いのだけれど、「yes when yes,no when no.」で、自分を観察して選択できるとよい。

 

「良いときは良い、悪いときは悪い。」

これだけ忘れないで選択ができればいい。

 

それが、ポジティブを生む。その良いには自分なりの説明があるだろうから。時の流れは早すぎて、良いも悪いも分からないうちに選択をせまられることだらけで、とりあえず目の前をこなしていくときが少なくないけれど、立ち止まってそう思えるといい。

 

良いと思って良いことをしたい。確かな思いで。