ダメだ!白杖持った人に声掛けるの!難しいぞ!できない!
( ̄◇ ̄;)な「ハピペン」です。
行き先が違うしとか思ってしまう……。
あーあ。
そうそう、それでね、まあ何にせよ「人それぞれ価値観は違う」。もう散々言ってきたことだ。
それって、人間の在り方について何を本物と思うか、何を偽物と思うかの違いかもしれない。
道徳性や人間性ってことだ。
学校は「勉強」と「身辺自立」をするところ。それができなければ、指摘をしなければならない。
助けてもらってできるのでは困る。
ずっと誰かに助けてもらわなきゃできない子になる。
それって悪いのか?どっかしらの人権を……うやむやにしておこう。
日本標準の道徳の副読本に、そういう助けてもらって移動している人の話もあったような気がする。
そういう生き方をするなら、そういう生き方に合った力を身につけてもらったらいいんじゃないだろうか。
助けてもらう力、人当たりの良さ、愛想、そんなのをテーマにしてもいいだろう。
とにかくいつも違和感があるのが、教師ごとに「社会人(アメリカ人に言わせればそんな単語に該当なしのhuman)の型が決まってしまっている点だ。
この世界は自分のことは自分でできなければならないモデル。もうこれは破綻していると思う。
これが、前提になったら心苦しい思いをする人がいくらでもいるんじゃないだろうか。
それでも時間は過ぎる。
さて、あと半年どこにBETしますか?
自律を願ってその都度伝える(おーい!伝えると言うは、違うよね、伝わってるって思えて伝えられるなら4月にそれやれや!)。
やる気、自覚、誠意にコミット。
面白い!それって続くの?継続的な変化なの、なんか身につくの?
他律(ご褒美)でいいからやらせて、それをやるといいという感覚を醸成し、ふさわしい行動をする繰り返し体験させる(これも4月からそうすべきだった。発言力が弱くてがなくて実現しなかったが、どさくさに紛れてやっとだ!)
それじゃ「偽物」の型だと言われる。それじゃ、ご褒美がなくなったらやらなくなる。
果たしてそうだろうか。
というか、逆に人間はその選択に旨味があるからそれを選んでいる。
常々、オートで勘定してるだろうよって思う。
自律的に変えられるとしたら、成りたい自分や理想像が言語化でき、内発的に自分をコントロールできる場合だけだ。
支援の子(もしくは、どの人間もそうだろうけど)、"やる"ってことから入った方がいいって例が多々ある。
それを強要するかは、それなりに読みがいるけど。
はじめてのプールを怖がったり、食わず嫌いをしたり、とびばこや大縄そういうのってちょくちょくある。案ずるより産むがってやつ。
UNOの例が秀逸だなあと思うのだけど、あんなの説明書読んでからやってるやつはそうそういないんじゃないだろうか。
やってみればだんだんできる。そういうことって結構あると思う。
やれるから、やるようになる。
そうでなければ、誰しもの行動を外部から強化することはできないだろう。
応用行動分析なんか、もろ強化子で行動を調整
していくだろう。
心を鍛えるのと、行動を変えるのと少し違う。
だから、言いたいのは、本物を育てたいとやり方も本物的なものを選ぶことが求められるのかもしれないが、そこは、良い意味で「成果」を求めたい。
重要なのは「持続的な変容」だ。そこに全BET
外発的動機付けは、科学だと思う。
私はそこに全賭けしたい。
その志がご褒美目当てだという「偽物」でもいい。こちらが求めるのは、その子が成果を得られること。変容できること。未来で生きやすくなることだ。
その課題が未来の幸せとどうしても紐付かないから改善したいのだ。
正直、親も本人もあてにならない。だから、仕掛け、システム、仕組みをつくるだけだ。
そうすれば、何回かある行動をポジティブに行えるはずである。
「本物」であるために「心(すなわち脳)」ないし、道徳性の変容を待つ猶予はあるだろうか。
4月なら、とは思う。そう思って半年見ていたし。
教育に「本物」とか「偽物」とか、そういうのはないと思っているのだけど、やる気、自覚、誠意でないと本当にその子のためにならない的な文脈で反論されたのでモヤっと。
「偽物」が「本物」になるって視点が抜けている。
繰り返しになるけど、人間に「本物」も「偽物」もないしね。
その子を信じて、その子の未来のために働きかける。
そこに求めるのは、エゴを通すことではなくて、理詰めでもなくて、変容。変わればよし。
その子が、相応しい人格者になるかどうかも考えたいところだけど、取り急ぎ行動がターゲットだ。
人格者になれるか?よりも「その子がその子らしく未来で幸せになっていい」って方を保障したい。
それには人格者になるよりも、ある行動を減らすことが先決なのだ。
これは、清潔やエチケットの話です。