かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

206日目:居残り

一日雨。それも悪くない。ハピペンです。

 

子どもたちに居残りを課す。かつ、視覚化。いつやるか言ってもらう。そうすると、意外と残ったり、やったりするものだ。良し悪しは分からない。

 

「自分からやるようにモチベートできなかった」ということ。

 

ただ、「見通しをもたせたり、少し期限を煽ったりしてお尻を叩けばやれなくはない」。そういう伴走によって、モチベートしたとも言えなくはない。

 

最近、内発的動機づけは難しいというのを本で見た。そりゃそうだと思う。

 

もし、何かしらの外的要因で、やってもらう必要があるなら、やってもらうしかない。本当は選べて、自発的であってほしいけれど。そういう自分の首の回らなさに疲弊していって、傲慢な大人は生まれてしまうのかもしれない。

 

ある先生が環境的に追い詰められていなければ、連日取り沙汰されるような先生はいないのだと思う。私は全く気持ちが分からなくない。分からなくないって、止まれるから止まっていられるだけだ。辛さを痛感している。

 

ただ、そうした、苦しい、圧力鍋の限界を越えてしまう先生は100%環境因だ。助けを求めることができて、コミュニケーションしてもらえて、事務仕事や児童指導で孤独になることがなければ。つまり、責任を個人に押し付けられていなければ、成果を求められて圧をかけられていなければ、否定されていなければ、そういう先生は生まれない。

 

とにかく、人に価値をつける大人は誰かしらを苦しめていると思う。そういう目で人を見てはダメだ。これは、ブーメランかもしれない。人はそう見てしまうのかもしれない。だから、せめてそう見ないようにっていつも自分に問うほかない。

 

子どもが言うことを聞かないのは自然なことだ。そっちに旨味があるからだ。授業を受けないで、代わりに友だちを作っているパターンもある。かけがえのない無視できない相手を。不適切だとは思うけれど、悪くはない人生だ。