他の人の部屋に23時までのつもりが0時までになり、寝不足?ハピペンです。
本当に温かな人たちだ。昨日だけで、今年度の職員室一年分の文字数をしゃべったのではないかと思う。
どうしても、他校の話を聞かれると、嫌なことばかり言ってしまうような気がして辛い。本当はそういうネガティブなことを言いたくない。
「ダメージ」ということに甘えて、語って癒されようとする自分も辛い。
今日でやめよう。
「いる」ということ
自然でいよう、と心がけたとして、心がけている時点で不自然でもある。だとしたら、その心がけがちな自分こそ自分らしさだと思いたい。
そうやって、反省して、いつもうだうだしているのがハピペンだ。
新たな仲間が、人間じみていて、私には眩しすぎる。
「自分に嘘をつかない」
その「川のように流れる自然さ」に、癒されるというか、私は実態がなくなってしまいそうだった。私は人間でなさすぎるのではないかと、眩しくて自分が見えない。姿、形がなくなる。
そういう意味でも、今年のステージは、そういう学びのある配置なのかもしれないと思った。「休息」の二文字が浮かぶ。その境遇でも自分を保つこと。「自分に嘘をつかないこと」。自然でいること。それこそ、真の休息なのではないか、なんて興奮していた。
私は、その人から「人間の在り方」を学ぶと思う。
その人は、自分の存在で、私の在りたい在り方を示しているように見えた。
「いる」ということ。
「もっと、自然でいなよ」
「いていいんだよ」
「休みなよ」
そういうことを、テレパシーで伝えてくれていた。そういう不思議な人だと思った。
そして、「ふと、優しい」。
最近この「ふと」って好きなのだけれど、そうし「ふと」、世話ないし、ケアのできる人というのは凄まじいと思った。
こうして、もらいっぱなしの自分は、また辛く、私はこの一年この人やこの人たちのために何かを与えられるのだろうか、邪魔せず生きられるだろうか、役に立てるだろうか、とモヤモヤしまくり出す。
一緒にゆばまんじゅうを食べたり、ハチミツの話を聞いたり。この日の終わりは楽しかった。無垢だった。一年後もこれを味わえたらいいのに、と思った。
切り替え
ただ、もう、こう、うだうだするのを辞めたかった。
そこで、儀式を挟むことにした。
普段ならこういう時は、一人でモヤモヤと悩むのだけれど、人を頼る。
下車駅に着くまでの10分間。そこを特異点とすることにする。
他校での痛みがある。
ただ、それについて悪く言いたくない。
私にないものを持っている人と組ませてもらう。
本当に光栄。
だからこそ、自分のせいで嫌な思いをさせないか不安だ。
そういったことを言った。
賢者は、
「誰でもそういうところは少なからずある」と言った。
そして、生き方を指南された。
「『してしまった』としたら、もう悩んだって仕方ないから、そこでうーんと悩むのは無駄で、そしたら、謝るか、カバーするか、やり直せるならやり直すしかない。けど、まだAかBか選んでいないなら、それについてはうーんと悩めるだけ悩んだ方がいい。私はそうしている。」と教えてもらった。
どこかで聞いたことのあるような話でもあるけれど、賢者から聞くと、また一味違うというか、一生忘れられない話になった。
私は、もっぱら「気にしすぎ」なのである。
振り返ると、網棚の上にあった荷物が下ろされていた。もう下車寸前なのだった。
ほら、また「ふと、優しい」じゃないか。
おいおい。
言ってるそばから、負担をかけている。
でも、それも、もう気にしすぎるのはやめよう。
自分をクズだと思うのはやめよう。
謝ろう。
カバーしよう。
やり直せる時にやり直そう。
それで、いいじゃないか。
次年度は、そういう学校で働く。
私たちは、各々解散となる。
その後も、私たちは、同じ電車で次に向かうのだった。
その夜
前の前の勤務校で組んだ人とご飯をする。
「同窓会」イメージ。もう同僚ってよりは、同級生。同級生ってよりは同志だろうか。
セーフスペースでたまらない。
また背中を押してもらえる。
今年度は、ここでの、「そのまんまのハピペンで」があったおかげで、何度も立ち上がれた。ザオラルだった。
本当にやばいときに、最後の最後、「そのままで」という、この言葉のおかげで、いつものハピペンを選べることが多かった。もちろん選べないこともあったと思う。だから、ザオラル。
最終的には、直接会うと、ベホマで、完全回復をして、また明日に向かう。
細々とでも、心を許した濃ゆい関係は続いていた方がよい。
必ず助けになる。お互いにとってそうなると思う。
温かい。清い。嬉しい。
また、次年度も会えるはずだ。
出会ってくれてありがとう。