ハイなんです。ハピペンです。楽しい情報しかない金曜日となった。金6の算数という勝手に生成された鬼門も、大笑いで終わった。「めっちゃ面白かった」とつぶやいている子もいた。
算数で爆笑
授業であんなに笑っているのは、たぶん初めて見た。xを好きになる瞬間、だったかもしれない。
問題づくりで誰の問題が面白いかを競った。彼らは盛り上がるのが上手いのかもしれない。ちょっと尊敬だわ。
これは狙って出来るものではないなあと思う。完全に内輪ウケで、流れが良かった。
5Hに学活で気持ちよく話していて、一体感もあったし、心を開いた状態で6Hに突入していて、私も機転が利いた。本当に偶然が重なって起こったのだと思う。
ここへの偶然を気にしだすと、本当にキリがないくらい、いろいろなことが折り重なっている。
たとえば、志水先生の丸つけ法を習いにいったことがあるからそういう机間指導ができたなあとか、あの子にそういう嫌いな食べ物があったから生まれた問題だったとか、ネタが被ったとか、そもそも金6だったとか(夜中になるとなんでも面白い状態みたいな)、そこを取り上げる程度には子どもを見る力があったとか。
度が過ぎれば傷つく子もいるかもしれないし、本当に絶妙なニュアンスだった。
純粋に作ったから良かったのだろうなあ。ウケ狙いってわけだなく。
そして、上で内輪ウケといったように、ケアが起こる場になっている感じが嬉しかった。この子たちはここでケアされるまでに、関係が近づき得る時もあるのだと。私たちは疲れていた。みんなの癒されたい思いが、かけがえのない時間を作った。
ケアについてはこちら
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自分のセンスで勝った!
専科の先生がクラスに不穏を感じると言った。私としては「で?」である。
そういう語り口を作れば、そういうストーリーをこしらえることができる。そういう目で見るから、そういうストーリーにもなっていく。
「いやいや、予防が大事だから」芽を摘もう!まあ、それも間違いない。
ただ、その「する」に対する「しない」の指導は、変わる可能性もあれば、変わらない可能性もある。どちらかというと、「変わらない」が少なくないことは、みなさん知っていると思う。変わったとしても一時で、寄り戻しがあるというか。
なので、そのストーリーは避けたかった。
ややこしいのだけれど、AとBがいるとする。AとBは教員に不満傾向にあるとする。Aが役割を果たさなかったとする。私はAに期待しているとする。ただし、Aを暗に注意したとして、(たとえば、個別に呼び出す。または、全体で名指しでなく注意を呼びかける)、しかし、それを、Bは攻撃と捉える可能性があると思った。ついでに、私はAに専科の時間についても、何かしらの訴えをする必要があった。同時にBの満たされない何か(かまってほしいというような何か)を満たす必要があった。私はBの若干の逸脱行動も気になっていた。
正直「それでいいのか!お前ら!」っていう気分だった。
昨日、私は悩み続けた。何をどう指導することで、何を変えられるか。
いや、ここは、そろそろさすがに注意しないと、いわゆる「一回締めないと」というやつである。
私は、これを言う人がいまいちと思う。見せしめ的で、卑怯だと思うからだ。
「注意するしかない!」となった時ほど立ち止まった方がいい。
もう、私は、コナンくんの気持ちだった。何か手がかりはないか、見落としはないか、何か糸口はあるのではないか、と。
そして、私はごく自然な形で、Bと敵対することなく、Aを咎める(咎めるというとちょっとひどいかもしれない。本当は、そういう気持ちに違いなかったけど、まあ、諌めるが正しいかもしれない)方法を思いついた。
それは、昨日の彼らの「適切な側面」を頭の中で検索している時に見つかった。
適切な側面については、こちら。
43日目:【アドラー心理学】脳はくだらないつくりなんだと思う【パセージ:その2】 - かならず幸せになれるいきもの
それは、昨日、Aの代わりをしていた人たちを褒めることだった。その中に偶然Bが入っていた。私はごく自然に感謝をするだけで、Aに自分がやらかしていることを気づかせることができた。それで、今日の行動が変わっていた。
一日を褒めから始められたのと、これが、入ったので、ついでのように、なんとなくのように、でも、気になっていることがあるとした。
「本当は言おうか迷うのだけれど、昨日専科の先生が元気なかった。なぜかは、分からないが」と。
その間、Aは下を向いていた。
「それで、目的が果たせているなら良いけど」と言った。そうでないなら、それは、やめた方がいいよ。先生悲しませていいことないもの」と。
「まあ、何があったのか分からないけど、自分が正しいと思う自分を選んでよ」と。
「それと、許されているということは、正しいというわけではない。私はみんなが選べると思うから、注意していないこともある。選んでほしい。」とお願いした(実際は高圧的だったかもしれない)。
しかし、今日、AとB界隈の動きが違った、顔色と声色も違ったかもしれない。一石三鳥的なものを投げられたと思う。
児童指導について
ふと思うとここ3年、児童指導で大きく外していない。ピンと来ない時は、予想通り現状維持だし、ピンと来た時は良い方に転ぶ。もちろん、私の言葉なんて関係なく子どもたちは成長しているとして、外すことが減った。
前は、次は失敗するんじゃないか、もう大したことは思いつかないのではないか。そういうことを思って怯えていたけれど、いつも、ギリギリのところで着地できる言葉を思いつけていると思う。自分でも自分は、なかなかやるなあと思う。もちろん気がつかない範囲でやらかしているかもしれないけれど。そもそも、もしかしたら、他の大多数にとって、当たり前の子どもとのコミュニケーションをしているだけかもしれないけれど。
その「思いつけなさ」が怖くて、本を読んだり、学んだりするのだけれど、少しずつエッセンスがたまって、少しは能力が身についたのかもしれない。なんというか、最近本を読むのが楽しくなってきた。言葉が頭の中でつながりやすくなった気がする。そう感じるのに2年はかかるのだなあと思う。ある学びが活性するまで、2年かかるのだ。
そんなわけで、「私、失敗しないんで」みたいな気持ちがちょっとある。どうか、この驕りでこの先失敗するハピペンをお楽しみにしてほしい。
そして、今回のことから思うことは、「良いことも悪いこともパートタイム」ということだ。おそらく一日の中で探せば、良いことも悪いこともどっちもあるのだ。
だから、その日の中に、探してみれば、「適切な側面は100%ある」。
一日をそれではじめるのか、「おいおいいいかげんにしろよ」からはじめるのかは自由だ。
ハピペンは、もしかしたら「思ったよりも、良いタイミングで良いことを話せる」というスキルが高いだけなのかもしれない。内容云々よりも。そのさじ加減がうまい可能性はある。だから、言っていることよりも「間」がいいだけかもしれない。それはよく分からん。
総じて、「まぁちょっとは、マシな大人ってだけで、学級って経営できるんじゃないだろうか」と思う。
ところで、になるけれど、ハピペンは児童指導を3ランクでイメージしていると気がついた。
- 将棋の盤上
- ボウリングのスプリット
- 目をつぶって針に糸を通す
というイメージをもっていることがある。
たとえば、今回のは「2」のスプリットくらいだ。よーく考えて、狙って、適切な玉を投げれば、見事にスペアを取れる。当てられた時はめちゃ気持ちいい。よし!って思うし。自分を信じて良かったと思うし、これこれ!とも思う。ほれみろ!って感じもある。ただ、どんな玉を投げるか決めるまで、ツーアウト満塁のピッチャーの勢いで首を振る時間が長い。それでも、振り続けた先に、勝利はある。
他に、将棋の時もある。よく分からないのだけど、どう出るかなあ、と。割とアセスメント時期には将棋なことが多い。絶対に勝つ!と意気込んでいる時も将棋なことがある。割と優勢で、指導する時はこちらのイメージだ。着実に相手に迫ることができる筋道がある時なのだと思う。
ピンチは、目をつむって針に糸を通す状態の時だ。しかも、ノーミスで。卒業式二週間前からのいじめ由来の投稿しぶりは、この状態が続いた。ミスが許されなかった。なのに、ハンデが多い。穴と糸の先を見られないのだ。手探りや直感で応じるしかなく、慎重さが最高級に求められる。これは、疲弊する。まだ、ここまでの指導が必要な状態に出くわしていないから比較的、気持ち的には楽だ。ここまでの指導は去年もなかった。
ノーミスを求められる指導とは本当に辛い。今年もそこまでの指導はない。そういう意味では、私は通常級の方が向いているのかもしれない。支援の時の方が、脳みそが熱を帯びていた。
対話のルール
マシな大人ってなんだよ。ってことで、ちったぁ、本質的なマシなことを教えられる大人だよ!って思うのだけれど、ハピペンはまったくまともではないかと思います。
そんなマシでないハピペンが推す、対話のルール23です。
ただ所属している。もはや「ふりをしている」ようなだけの感じで本当に申し訳ないのだけれど、ちょっとしたつながりに大変感謝している団体です。団体ってよりも中の人が愛おしいわけだけれど。
ただ、こういう真実味溢れる何かは、子にちゃんと刺さるようだった。
このルールを従えて学級会へともつれ込んだ。
そんなこんなで、週末。
良い出会いもあったんだ。本当にいい週末だ。幸せでならない。
ありがとう子どもたち。そして、周囲の人々。ここまで来たから、ここまで来たかいを感じる。