かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

トランスとゴミ拾い

ミルトン・エリクソンの本を読んでいる。1日に「トランス」という文字をこんなに見たのはFF9をやっている時以来かもしれない(今、Switchに入っているけれど)。

 

トランス。よく分からない概念。定義はなく、内的に体験した人にしか分からないのだそうだ。そんなややこしいことばかり書かれた本を読んでいる。ヒントは、とにかく「ハッ」とするみたいなことだと思った。気づかないうちに時間が経っていたり、あることをしていたり、反対にしていなかったり、体が固まっていたり、過去のことを思い出していたり、未来をぼんやりと思い浮かべていたり、そういったもろもろの「ハッ」とするような時の、「ハッ」とするまでがトランス(日常にあるトランス)なのだろうと思った。

 

そんな本を読みながらうたた寝てしまった。その寝ている時の映像の中で私はトイレで嘔吐下痢のような症状でいた。その瞬間は現実だと思っていた。「うわーここで体調にくるかー。一気に来たなー。急に具合が悪くなりすぎだよ。午前中元気だったのにー」なんてことを思いながら液状のものを便器に吐き出していた。

 

「ハッ」とするとそれは現実ではなかった。本の中で白昼夢は「ミニトランスとは呼べるかもしれません(笑)」みたいに書かれていた。

 

私はその映像の中ではとにかく苦しかった。気持ち悪さは一切なくなっていたが、その感覚だけは現実でも少し残っていた。

 

この苦しさはどこからくるのか。ふと昨日のことが思い出される。「ああ、私は昨日ショックだったのだな」と気づく。それが苦しかったのだ。どこか。

 

週明け、それは伝えたらいいなあと思う。

 

ただ、とにかく今までのやり方ではダメだと思った。全く次元の違うアプローチをしてみようと思った。昨日のショックを思い出すとほぼ同時に思いついた。それがいいと思えた。さらに、これもまたほぼ同時に私の頭の中では水谷修先生が「死にたい」と電話をかけてきた人に伝える「人の役に立つことをしなさい。なんでもいいから、ありがとうと言われるようなことをしてみてごらん」という言葉を思い出していた。

 

ショックを受けたであろうその子は、「よいこと」をすれば、少しはマシになるかもしれない。良かれと思って、昨日「なみだ」という絵本を買いはしたが、それではどこか足りない。その子の心の強さを賞賛し肯定してもどこか違う。

 

私は考えている。今回も考えた。本も読んだ。学んだ。それで、なんとかしようとしている。そういうところがダメだと思った。苦しさはそこから来るような気がした。考えるだけじゃ、思うだけじゃダメなんだ。私から滲み出る何かが変わって、伝わらないと変化は起こらないように思った。

 

私は、稚拙かつ、短絡的だが、とにかく私が今何か「よいこと」をしてみることで、風向きが変わるかもしれない。何かが変わるかもしれない。だから何か「よいこと」をしようと思った。「よいこと」とは、ただ、単に、彼らを思いながら、ゴミを拾う。つまり、願掛けということだ。あの日のショックやこの日の苦しみも、今現在の「よいこと」が肯定してくれる。どうか、彼や彼女らのこの先がよくありますようにと。そう信じて。

 

そして、実際に、この行動がコミュニケーションを変えると思うし、子どもたちが自身や私を見るフレームを変えると思う。

 

「君たちが好きだから私は土日ゴミを拾った」という先生がいたらちょっと面白いしね。

 

やってみると分かることもある。イベントでなく一人でゴミを拾うのは恥ずかしいということだ。しかも、誰のためでなく自分のためにやっているから、神経が小汚い。ただ、それで、自分の界隈の世界は変わるかもしれないのだ。自分の行動で自分の出来事への考え方や見立て、ストーリーが変わる。頭のだけでなく、体を動かしているのもよい。そして、誰にでもできることなのに、なかなかやらないことなのもよい。こんな風に別角度から学級に働きかける。心地が悪くはない。こうしたことをこの先もまた思いついたら試してみよう。

 

来週が楽しみだ。

 

ついでに、ポイ捨てがよくないと学ぶ前に、まず拾わなきゃなんも実感しないなとも思った。