かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

186日目:暴力ってなんだ?

平易。へーい!へいっ!ハピペンです。なんだかなあ。通常営業です。かつ、通常営業のグレードがあがってしまったというか、授業準備がそこそこ出来たり、ノートをよく書いていたり、発言してくれたり、授業楽しいって言ってくれたり、クライマックスに向けて全員レベルが上がってきた感があります。というか、ようやくハピペンに慣れたって感じもします。それが浸透するのも、子どもを変えてきたからなのではないか、と思いたい。「この人の言っていることちょっと分かってきたわ、確かにみんな変わるね」ってベネフィットが提供できているかもしれない。

 

ただ、長いわ。全員ちょっとずつで、ぐわ!って感じなんだよね。だから、時間がかかる。「もう一年見れたらもっと、君ら楽になるだろうなあ」なんてことを最近よく思う。

 

どうして、そんな効果があるのだろうと思い返していたのだけれど、やっぱり、なんだかんだ「勧善懲悪にしていない」というところが強みだと思う。何がダメか。一応建前上言うけど、無理なものは無理で、止まない「立ち歩き」「おしゃべり」「暴力」はある。そんな最低最悪みたいな教室なのだけれど(すべての問題行動はパートタイムで、目立った暴力は月1ほど)、変わっていく。

 

立ち歩きはなくなり、切り替えは上手くなり、暴力は減少し、マシになっていっている。

 

そして、昨日「暴力が止まない」ということをエントリーしたのだけれど、誘発しているのは、外界なわけで、そこにも注目してみることにした。

 

「暴力は悪い」

それを前提とした上で、暴力する側でない方へのアプローチを考えた。案の定、今日も同じ子同士のやり取りが起こっており、それを数人が止めていた。自発的に身体を間に入れて当事者意識をもって止めているように感じた(ハピペンお前は止めないのかよ!ってね)。私はというと「ああ、この子たち、本気で止めようとしてくれているな、これは、いけるかもしれんな」なんてことを思っていた。

 

そこで、止めていた子どもたちを集めて、昨日話したことを使いながら、私の考えを伝えた。

 

昨日、話したことというのは、京大の鯨岡先生の言ってた、

「自分には根本的な二種類の欲求があり、それによって『私』と『私たち』、二つの自分がいる」という話だ。

そして、

「暴力はよくない」とした上で、「暴力は『私』か『私たち』かを問うた」。当然「私」となる。そう。

次に、じゃあ、暴力を振るわれている二人は「私」か「私たち」ではないかということを伝えた。実は、というか、その二人が仲が良いことで、間に入りたい子によって暴力は誘発している。もし目的を「暴力を発生させない」ということになると、教室の席や図書室で本を読むときなど、限られた環境下において、一緒に行動しなければよいだけなのだった。

 

「暴力が悪」と定まっているから目につかないが、「おい、ここ学校だぜ?」と私はどこかで思っていて、同じ論理が暴力をしている子の中でも言葉にならないとしても、必死の訴えとしてあるように感じた。

 

「公私混同しているのは誰か」ということだ。

 

ある子どもが暴力を我慢するのと同じように、逐一ある子といたいという気持ちを我慢する必要があるのだった。もし「暴力を発生させないこと」が目的ならば、である。

 

そうして、止めに入っていた子どもたちを解き放った。「もし、君らも暴力を止めることを目的とするなら、誰が悪いかではなく、ある子どもだけが我慢するのではなく、周りの子も考える必要があることを伝えてくれ」と頼んだ。

 

今日に関して言えば、そこから、暴力について報告されることはなかった。

 

私は危ういことをしていると思う。

「暴力をした人は、何がなんでも、絶対、誰が何と言おうと、どう足掻いたって、とにかく悪い」ということを覆している。

言い換えると「暴力をした人間は不自由でなければならず、暴力をしない人間は自由である」ということを覆している。

「暴力をする人間も、暴力をしない人間もある程度不自由である」という状態をつくり、「暴力の発生させない」ことを実現することにした。どの子も対等であるというのは、どういうことなんだろうか、と。今も頭の中がスッキリしない。

 

「ある条件下において、子どもは対等である」ということなのだろうか。たとえば「どの子も暴力をしない場合に限り、子どもは対等である」っていうような。

 

これは、実社会につながる話だと思う。しわ寄せというか、そのもの。暴力をする方も人間だってことだ。人間として対等に扱えってことだ。悪いから悪いってのはない。それは、これまで、見落とした歪でもある。誰かがどこかで見落とした歪。