【「居場所だった」としたら】
「居場所だった」ということには価値があるだろうか。たとえば、「居場所ではないと思っていたが、居場所だった」という思いについて。これには意味があるだろうか。
クラス替え、あの子と同じ・違う、新しい学校。そこから思い出す「居場所だった」ところ。
重い荷物を背負って、なぜわざわざ訪れるのだろうか。嬉しいけど、もどかしくもあった。少しでも彼らが、何かを思い出して来てくれたのだとして。
立派な姿だった。嬉しかったなあ。
キラキラしていた。この先の学校生活が輝いてほしいと思った。
【新学期について】
一つ懸念していたことは、全く真逆に舵を切り、先手で声をかけてもらえた。こちらも嬉しかった。もしかすると、一番に全くいつも自分を信じていないのは、自分なのだろうなあって思った。笑顔でやっていこう!
【新入生について】
かわいい。こちらも輝いている。学校に溢れる期待を抱いているのがわかる。みんなで勉強しよう!そうできそうな気がした!えらいっ!!
話を戻す。
「居場所だった」ところに人は価値を抱かないのではないか、と思う。それは、あんまり、今の支えにならないからだ。人はそういう時、「今、依存できるもの」を探す。ただ、「そのつながりの感覚」を思い出して、一足動き出せることもあるかもしれない。新しい出会い、道、成長に。まあ、信じるほかないかな。
みんなで力を合わせてやっていこうね。