かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

116|学校は教えてはくれない

これまた、当たり前のことなのだけれど、「学校は自分が一番知りたいこと、本当に知りたいことは教えてくれない」って話だ。

 

そう思うと、子どもたちは別に知りたくもないことを垂れ流されて、「そういうことになっている」みたいなものによって、次々にインプットのパイプを埋められている。

 

そして、バケツもいっぱいになる。

 

パイプというよりは、時間かもしれない。時間が埋まる。スタミナも使う。だから、「自分から学ぶ」が起こらなくなるのではないだろうか。

 

学校の授業というのは、動く歩道みたいだ。1コマだって余裕がない。何をやるかが、ベルトコンベアのようにやってきて、与えられる。「もっと、虫を見たい」とかは、許されないのである。

 

「じゃあ、それは家でやろう」ってことになる。

「友だちと見たいんだけど!?」じゃあ、友だちを家に呼びなさい。

「いや、その子は学童で、私は自宅で」。

「そんなん、知るか!」と払い除けるわけだけど、そんなにコストをかけて調整する力までが、子どもにあるのだろうか。

 

どんな簡単なことでも、キャパオーバーすれば負担になるように。

 

平坦で、敵はクリボーしか出ない面でも、その圧倒的な量によっては、ミスることもあるだろう。

 

学校教育には、その圧倒的な量の勝手なインプットが溢れかえっているんじゃないかと思う。

 

まるで、自分なんて存在しないかのようだ。どんどん。やれやれやれやれ。どんどんどん。やれやれやれだ。