【不幸のすすめ】『希望の心理学』【公平さ、忍耐、信頼】
今日は、ほとんどぶっ倒れている。足がなんとなく痛いしね。ハピペンです。
でも、読み終えたい本を読み終えた。
希望の心理学―そのパラドキシカルアプローチ (りぶらりあ選書)
- 作者: ポール・ワッラウィック,長谷川啓三
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 1987/03/01
- メディア: 単行本
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まったく名著である。
『希望の心理学』なんて抜かしているのに、内容は「不幸のすすめ」だ。
人が不幸になるための方法が羅列してある。
そのどれもが「あー、あるある」と思えることが恐ろしい。
人は不幸になるべくして、なっているし、わざわざそこに向かって生きているということがよく分かる。
つまり「人間が不幸なのは当たり前」ということだ。
不幸から抜け出したい???
ならば、何かを変えるしかない。
そう聞くと、おそらくほとんどの人は「えー!」と思うのだろう。
それでも構わない。
「えー!」だとすれば、「不幸であることを受け入れて、楽しむ他ない」。
まあ、何かを変えられるかどうかは、不幸になる方法を見てからでも遅くないかもしれない。
自分は、なぜ不幸になっているのかが分かるし、それをやめれば、いつでもあなたは幸せになって構わないってことなのだから。
希望の心理学
この本もブリーフセラピーの源流シリーズの一つ。
先週読み終わった『変化の原理』が、理論書で、ヘビーな教科書的なものだとすれば、こちらの本はライトな小説的な立ち位置だそう。
変化の原理〈改装版〉: 問題の形成と解決 (HUPセレクション)
- 作者: P.ワツラウィック,J.H.ウィークランド,R.フィッシュ,長谷川啓三
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 2018/05/18
- メディア: 単行本
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(変化の原理についても、また書きたい)
ワツラウィックの表現は、シニカル満載で分かりにくい。けれど癖になる。矛盾が散りばめられていて、頭を使って楽しむような本。
『希望の心理学』も、不幸になるためにどうすべきかを丁寧に勧めてくれている。少しでも幸せになろうとすれば、「それはダメだよ」と教えてくれる。
「そんなことをしたらせっかくの不幸が逃げてしまうよ」と。
まったく面白い。
第1章:なんじ自身に正直たれ
初めの不幸になる方法は、
「唯一の正しい道があると信じて、その道を信じた自分(だけ)を信じること」
である。
すると、自分自身の決めた道に合わないものは、すべて狂ったものに見える。
そんな風に他人のせいにすることは、とても易しいこと。だから、すぐに実践できると思う。
そして、不幸初心者の人はその狂ったと思っている世界の中で不平・不満を言いながらも過ごしていく。
一方、不幸上級者は、妥協を許さず、唯一の正しい道のあるべき姿に向かって突き進む。
「唯一の正しい道」を信じ尽くすと、人は「否定の精神」に包まれることになる。
「唯一の正しい道」と他者を比べることで、この世界のすべてが間違って見えるため。
否定しなければ、自分の信じる唯一の正しい道の正しさが薄れてしまう。
その「否定の精神」も、一切の妥協なく、誰かが示した正しい道(自分が見つけていればそれを選びたかった道)も、自分でない誰かが見つけたなら許せず、否定したくなる。
さらに、自分も「唯一の正しい道」にはたどり着いていないため、現在の自分をも「まだまだ」と否定する。
終いにはそこには誰も残らず、誰もたどり着けず、誰も存在しない、「唯一の正しい道」だけが残る。
「自分に正直でいる」ということは、簡単なようで、誘惑の多い言葉だ(魅力的だが、実際は苦しい)。
もし不幸から逃れたいのなら、どんな風に正直でいるかは、考えないといけない。
みなさんは、そんなことを求めないだろうけれど。
「否定の精神」に包まれている自分に気づいてしまったなら、「自分では自分に正直でいるように思っていても、実際に自分に正直でいることができているか」というと、怪しいかもしれない。
そうでなければ、自分が「否定の精神」に包まれているとは思わないはずだからだ。
心当たりがあるなら「自分は『自分に正直』の幻想に飲み込まれている」ということである。
この不幸への処方箋は、「他人に正直であること」だ。
第2章:過去との4つのゲーム
ここでいう「ゲーム」は、つい繰り返してしまう「行動パターン」のこと。
1.過去の賛美
過去にすがること。あの日の出会いを思い出し、もう一度そのような奇跡が起こることを願って日が暮れるのを待つこと。すると、人は不幸になれる。
2.後ろを振り返ること
過去に注意を向けること。今日何をするのかや、未来で何をしたいかではなく、過去のことをひたすら考える。すると、せっかく手に入れた不幸を不幸でなくしてしまうことを避けることができる。
3.運命のビール
変えることのできない過去の出来事を悔やむこと。たとえば、禁断の果実を食べてしまったことの罪を引き受けること。変えようのない、既に起こってしまった出来事について、何度も考えることで、不幸を追求することができる。特に、その変えようのないことに対して「それでもおまえなら運命に対して何とかできる」と思うことで、さらに不幸を重ねることができる。その先に「今やもう遅すぎる、もう何も望まぬ」となれば、なお不幸になれる。そして、すべてを過去のせいにすることができ、その場に留まる、つまり、不幸に留まることができるようになる。
4.「同じことの繰り返し」
環境が変わったにもかかわらず、過去にうまくいった方法を繰り返して行うこと。周りが変わっているにも関わらず、昔のままでいることで、不幸に突入できることがある。自然の法則は一定である、反応はいつも同じであると考えることで、より深く同じことを繰り返す動機を作ることができる。
そうすることで、別の実現可能で、今に適した、より優れた解決方法が存在するという事実に目を向けなくて済む。
さらに、気をつけるとすれば、過去の解決を決して「偽解決」などと呼ばないこと。
これらから大切な二つルールが見つかる。
- 正しい論理的な唯一の解決が存在するはずであり、それが効果を現さなければ、その方法をさらに強力にすすめるべきである。
- 唯一正しい解決があるという仮定は疑う余地がなく、その解決策の適用の仕方こそが問題にされ、「洗練」されるべきである。
この不幸への処方箋は、「未来の自分のために、現在のあなたが生きやすくなる方法を選ぶ」ということ。
第3章:ロシア人とアメリカ人
自分がしていることに、自分では気がつかないこと。自分を見失うとも言える。自己正当化と言ってもいい。そうすると、たちまち不幸に陥る。
この不幸への処方箋は、「なんかおかしなことに気づく」ということ。
第4章:金槌を借りる話
人々は私のことが嫌いだ、と。隣人は私を殺そうとしているに違いない、と。思い込むこと。そうすることで、善良な人々を敵に回し、不幸になることができる。
「思い込み」が大切である。
自分は神に見放されている、そういえば身体の一部が痛む気がする、いつも人々が自分の顔を見て笑っている気がする、信号が毎回赤だ、とにかくツイていない。
こんな風に「気がする」ことを繰り返し思い浮かべて訓練していく。不吉な連想をできるだけ多くする。そうすれば、不幸はもうすぐそこ。
特に何か怪しい恐ろしいことがあなたの周りで起きていると信じられるようになったら、誰かに話すことだ。友人は「そんなことはない」と言うかもしれない。しかし、それは、友人が悪い人とつながっており、あなたを陥れるための罠だ。そうでなければ、熱心にあなたの考えを正そうと説得するはずがない。
この訓練によって、不幸な状況を創り出すための力をつけることができる。そして、不幸を被る気になれば、心ゆくまでそれを味わうことができようになる。
この不幸への処方箋は、「気のせいは、気のせいでしかないと知る」ということ。
第5章:一握りの豆
現実を見ないこと。現実との照らし合わせはどんなものでも、不幸への追求にとって有害となる。第4章の気のせいについて、データをとって「そんなことな買った」なんて現実を決して明らかにしてはいけない。誰かに相談するときは、第2章のような、過去の誤りをひたすら追求するような、実際の行動や現在について解決しようとするような人に相談してはいけない。せっかくの不幸が台無しになるかもしれない。
この不幸への処方箋は、「実際の現実はどうかを知る」ということ。
第6章:象を追い払う
私たちは常に危険に晒されていることを想像し、それがいかに避けられないか考え、しなくていいことをしよう。
たとえば、これまでの章を生かして「象が家に襲いかかってくる」と想像しよう。それを避けるためには、回避行動がいる。
それは、「一日に3度手を叩かなければならない」というものである。そして、手を叩いた後はこう考える。「見た通りここには象は来ていない、二度と来ないようにこれからも叩き続けよう」と。このように問題を探し、問題に注目し続け、問題がいつも身近にあることを何度も確認しよう。どんな考えであろうと、それが確かに保持され、栄養を与えられ、栽培されるとき、それは、それ自身の現実性を生み出す。
この不幸への処方箋は、「回避行動をやめてみる勇気。それでも、危険は起こらないと知る」ということ。
第7章:予言の自己成就
予言を信じて、四六時中気にすること。そうすることで、予言を成就できる。一日の間中、占いの結果を気にして、嫌な予感が的中しないかに注意を払ってすごすこと。
この不幸への処方箋は、を予言は予言に過ぎないと知る」ということ。気にすればそれは的中し得る。ジレンマ。パラドクスがある。
第8章:終着への用心もしくは未来とのゲーム
「目的を達成することは素晴らしいこと」とされる。だから、目的を達成できないことは、素晴らしくないことである。そう考えられているなら、やはり不幸を手にする素質がある。
さらに、目的地は第1章で言ったように、遥か遠く、偉大で壮大でロマンチックで、理想的な唯一の正しい道であるほどよい。地道でない、目的地がよいのだ。地道で手が届きそうな目的地であってはならない。それでは、達成して、幸福になってしまう。また、到着せずとも、その過程で、気がつきさえすれば、幸せを手にしている可能性もある。しかし、それには、目もくれず、到着すべき目的地だけに目を向けること。そうすれば、不幸はより身近になる。
アドラーもこう考えたそうだ。「『到着』とは、目的地へ達することを意味し、一般的に成功や権力、理解または自己尊重の程度を示すものとして使われていて、反対に失敗、もしくはとくに人生上の『漂流』が、愚かさや怠惰、無責任、また臆病さをも示すものとされる」と。
(この本では、おそらくアドラーは皮肉として扱われている)
道半ばで「到着」について迷いながらも進み続けること。決してその迷いから覚めてはいけない。ひたすらに「到着」を目指すこと。そうすれば、遠い幸福の島。すなわち「ユートピア」という「何処にもない場所」を追い続けることができる。
この不幸の処方箋は、「今日これからの、もしくは、明日の目標を立てる」ということ。
第9章:本当に私を愛してくれるなら、ニンニクも好きになって
「地獄ーーそれは他人を意味する」という言葉から始まる章。
ここだけ、やたら理論立っている。
コミュニケーションについて
コミュニケーションには、「物レベル」と「関係レベル」があるという。どういうことかというと、「この料理の味どう?」と聞いた時に「物レベルでは、『おいしい・おいしくない』」で答えればいいのに対して、「関係レベルでは、関係を壊さないまたは維持するための返事が求められる」ように、コミュニケーションには、二つの意味が存在するということだ。
「関係レベル」のコミュニケーションをコントロールすることは難しい。そもそもうまく言語化できないのだ。だから、こそ「関係レベル」のコミュニケーションのやり取りは、常に「関係破壊」の可能性を秘めている。「関係レベル」のコミュニケーションが、問題に問題を重ね、新たな問題を生む。本来思っていることと別のことを(遠慮して、自分に嘘をついて、相手を欺いて、配慮して)伝え続け、違和感を生み出すことで、関係破壊の達人になることができる。もしくは、ひたすら相手の返事を疑い続ければよい。「なんで怒っているの?」と聞いて、返ってきた言葉を、「本当は違うくせに」となじっていけばよい。非難し、否定し、拒否し続ければ、不幸な関係を実現できる。
この不幸への処方箋は、「疑わないで信じる」ということ。
(ややこしいのだけれど。幸福には、ロジャースの自己一致が大切ってことだろうなあ)
第10章:「自主的たれ!」ということ
「できないことをやれ!」ということ。その命令を権力者から与え続けてとらうことで、不幸になれる。しかもディープな不幸だ。その最たるものが「自主的たれ!」というものである。この言葉の後には、真実は存在しなくなる。それは、その後、いくら自分から動いても、自分から動いていない可能性を秘めるためである。本当に、誠に、真に、心から自主的には動いたかが分からない。ひたすらにそれを責めることができるようになる。「できないこと」を命令され続けた結果、人は自己を本格的にダメなのだと決定づけることができる。自分はいくらやってもダメなのだと思うことができ、自分は何をやってもダメなのだと絶望させることができる。「幸せたれ!」も同じような状況に近づく、これは「到着」とも合わさって、意識してすべきでないことを意識させて行わせることになり、不幸の奈落へとつながる。
この不幸への処方箋は、「『できない(証明できない)ことを『できない(証明できない)』ことはおかしいことではないと知る」ということ。
第11章:なぜ彼はあなたを愛するのだろうーーその卑しむべき真実
愛を信じないこと。愛する理由は、誰にも答えられない。人は、自由の中で条件のない中で愛され、愛を証明したい。しかし、それは、第10章の「幸せたれ!」のように、証明できないことである。「私はあなたを本当に愛している」ということは、どうしたって証明できないことなのだ。だから、愛を信じてはならない。自分を愛するものなどいないと信じ抜くことで不幸になれる。決して親切な人が心から喜んであなたと関係をもとうとするといった現実的な発見をしてはならない。人々は偽りの愛をぶら下げてあなたに近づいているだけなのだ。愛があると思ったとしたら、それこそ、それは、気のせいなのである。
この不幸への処方箋、「親切にされた、気分が良かった、心地よい感じがしたなど。自分が体験した現実を受け取る」ということ。
第12章:援助の罠
第11章の続きのようなもの。
利他心や行為の純粋さを疑うことは、難しくない。何を言われても、親切な人には、本当の動機があるに違いないと勘ぐることだ。どんな善良な行為を行う人にも、善良でない動機があるから、それを行なっているということだ。つまり、すべてはごっこであるということだ。
そして、二つの示唆がある。一つは、どんな善意も関係の破壊に向かっているということ。善意が失敗すれば、その関係は当然に終わるし、どんな善意もそれが成就すれば、やはりたちまち関係が終わる。もう一つは、上で挙げたように、善意は善をしたい人が利己的にしているものであって、決して利他的なものではないということである。善を行うものは、善を求める不幸な人を求めている。つまり、共謀関係にある。もし、それが現実で叶わなければ、演じ続けるしかない。善を行うことを目的としたり、善意を他人に求める限り、人は不幸を生み出すことができる。
この不幸への処方箋は、「一方的な共謀関係ではなく、相互依存的な共謀関係を築く」ということ。もしくは「あなたは演じずとも、あなたでいていいと知る」ということ。問題は、それが生きづらいかどうかということだろう。
第13章:気の違った外国人
自分の見ている世界こそが本当だと思うこと。
私たちは、自分たちの個人的な生活世界が嘘であるとは思いたくもない。なぜなら自分たちの世界が本当の世界であり、自分たち以外の他の人たちの世界が、狂っていて、偽物で、幻想で、そして、この世のものではないと前提されている
世の中では、所変われば「ゲームのルールが変わる」。しかし、それについて、あれこれ考える必要はない。自分の行いについて、どんな反証をあげられようと「自分の行動こそは正常で正しいものであると信じる」ことで、他の人すべてがバカげて見えるようになる。そうして、自分の視野を狭め、自分の見方や考え方を健全な不幸の状態に保つことができる。
この不幸への処方箋は、「多様な考え方があると知ること。他人について知ろうとすること。自分以外の在り方も尊重する」ということ。
第14章:ゲームとしての人生
不幸への至る基本的な前提条件は「我々の右手をして、左手が行なっていることを知らしめないという『能力』にある」。
そうして、我々は、知らないうちに「ゲームを演じることができる」。
それは、
「これはゲームではない!本気なのだ!というルールに従うゲーム」であり、
「人々はゲームをやっている。ゲームをやっているんじゃないというゲームを」である。
そして、このゲームには、
「ゼロサムゲーム」と「ノンゼロサムゲーム」がある。
「ゼロサムゲーム」は、「勝つか負けるか」である。片方が「5点」を取れば、もう片方は「−5点」となり、合わせると0になる。
「ノンゼロサムゲーム」は、「参加者が一緒に勝つか負けるか」である。
人々の関係について、「ゼロサムゲーム」持ち込めば、地獄を出現させることができる。そのためには、両者ではなく、一方が「関係レベル」で、「ゼロサムゲーム」を持ち込むだけでよい。実際の対戦相手は、「人生」にも関わらず、「相手の誰か」を対戦相手にしてしまう時点で、自分は人生の主導権を放棄することになる。相手が得点するかどうかということに囚われて、それに応じて自分を操縦することになるからだ。本来、人生のことは「勝ち負けゲームから最も遠くにあるべき」なのだ。二人でのみのゲームに夢中になってはならない。どちらかが、二人の関係にゼロサムゲームを持ち出して
、人生という対戦相手に仲良く負けている場合ではないのである。反対に、相手を負かしてしまわない限りは、相方共々勝利を得ることができる。しかし、人々は、人生ではなく、相手との対戦に飲み込まれていく。
この不幸への処方箋は、「このゲームを終結させ得るたったひとつのルールは、ゲーム自体ルールの中にはない。『公平さ、忍耐、信頼』といった性質のものが、ゲームを終わらせるのに役立つ。それらなしには、ゲームは終わりのないゲームになってしまう。」
もしも、「人生は我々に、人生に投げ入れたいものを与えてくれるものだ」ということを信じることができるならば。我々人間は不幸を造り出すだけではなく幸福の建造者でもあることを知るだろう。
すべては良好だ。すべて。人が自分が幸福であることに気づいていないから不幸なだけなのだ。それだけのことだ。それがすべて。それだけだ。そのことに気づきさえすれば、すぐにでも、瞬時のうちに幸福になれるのだ。
実にその通りだろうと思う。
事態が絶望的であれば解決もまた実に簡単なのだ。
不幸を目指すみなさんは、決して自分が幸福であることには気がついてはいけない。人々との間で勝ち負けを競い合い続けるべきだ。誰が正解か不正解か、誰が正しいか間違いか、誰が成功か失敗か、誰がありかなしか、誰が生きていてよいか生きていてはならないか。延々と問い続けようじゃないか。
決して「それでも幸せなひとはいるから」ということも、誰もが「かならず幸せになれるいきもの」だということにも気がついてはならない。人生には勝者と敗者がいて、誰もが仲良く勝利できるなんていうことを期待してはならない。今も人々は常に不幸なのだと、いつもその身で味わってほしい。幸せには決して気がついてはならない。この「不幸のすすめ」を知ったことこそ不幸であり、これは、不幸になるための役にしか決して立たない情報なのだから。みなさんは、大変に不幸である。
もう一つの、苦しくなる考え方集
学校は楽しい!!
学校は楽しい!
大人って面白い!
そして、生きるって楽しい!
この辺は、ハピペンが結局のところよく思うことである。ハピペンは、学校は絶対に楽しい派である。あんな変なとこ学校意外にないわ。
この歳になって、とうもろこしの芯を食べることにチャレンジさせられたり、ハピペンに会ったら人生変わると12年前に出会った子どもに言われたり(もう12年子どもを見てんのか)。まあ、とにかく面白いよ生きるってことは。
そんなことを回想しながら、ふと「学校は楽しい」への違和感の正体が分かったかもしれないと思ってのブログ。
何も難しいことではない
なんてことはなく。「学校は楽しい」という言葉に違和感があるとしたら、それは、「学校は楽しい」に「学校はつまらない」が含まれているかどうかで変わってくる。
「学校は楽しい」と、そのまま字通りを前提に振りかざされると苦しい子が出る。ここに違和感があるのだ。つまり、「学校は楽しい」もののはず、にもかかわらず、「学校はつまらない」と思う人は、学校が向いていないのか。そういう子はいてはならないのか。という解釈ができなくないことへの違和感なのである。
だから、もし「学校は楽しい」という時に、「つまらない」という感情や経験もできるという意味で、たくさんの様々な、多様な、出会いや経験、体験、活動ができるという意味で「学校は楽しい」、「凝縮された喜怒哀楽のカオスであり、日替わり分替わりで魑魅魍魎に出くわす、これぞ人生の醍醐味」的な意味を含んだ「学校は楽しい」であれば、違和感は減る。
どいつもこいつも来ていいんだぜ。
どんな自分でいたっていいんだぜ。
それで、何が起こるか、何を学べるか、何を感じるか。
さあ、毎日楽しみに来てくれ!って感じだとハピペン的には違和感はない。
子どもたちは、日々、新たな人、新たな出来事、新たな自分に出会って変わっている。常に変わっている。だから、常によくなる可能性を秘めている。だから、来てほしい。楽しんでほしい。同じ日は二度とない。昨日うまくいかなかったことも、今日はうまくいく可能性がある。そういう物語を創っていけるし、創ろうとしている大人がいる。それが学校。あなたは必ず成長する。
自分が自分でよかった。
生まれてきてよかった。
呼吸して嬉しい。
明日もまた自分と過ごしていきたい。
自分に出会えてよかった。
それを感じられることが成長だ。
「あなたの無数にある生きる喜びに力の限り出会わせるのが学校」に違いない。
ちなみにこれは、「楽しいか」「楽しくないか」の論理階型から脱出したから考えられたこと。
200日目:「関係の構造を見ること」と「宿題」と「生まれる前・生まれた時」について
夢では以前の教え子が出てきた。勇気がくじかれている様子だった。あの頃の事実で勇気づけできる人が身近にいることは、有用なリソースだ。いないことは、損だ。しかし、どの人の中にも、誰かしらは宿っている。その源泉に触れられるか。内側への探求。外側との接点による海馬の刺激。
ハピペンです。
暴力の止まない子
月曜にストーリーが変わった。いろいろあると、間に入って話を聞いて、やり直すとなれば、謝る場面に付き合う。
ただ、それでは、関係修復でしかなく、良くはならない。だから、関係に作用したい。どちらかというと、プラスの関係にしていきたいのだ。
なので、単純に、「ごめん」「いいよ」の後に、お互いの良いところを一つ言ってもらうことにした。
すると、暴力する子は「スマブラがうまい」という話が出た。
そこから「今日うちでやる?」と今までと別の子が入ってきた。
そうして、これまでの関係が大きく動いた。
暴力をする子は、別のこと遊ぶようになったのだった。
「その一言」によって、局面が大きく変わった。
その影響に驚く。
「変わる」ということは、ほんの些細なことからはじまる。
タイミング、内容、抑揚、言葉、しぐさ、目線、場所、時間など、いろいろな要因の中で、「ある一言」があるだけで、事態は変わる。それも良い方に変わるのだった。
本当は、その変化を引き起こす「些細なこと」を処方できるようになりたいのだけれど、なかなか難しい。
そうだ。
大きく見落としていたんだ。
「Aさん、Bさん、Cさん」のコミュニケーションの何を変えるかを考えすぎていた。
実は、これは(というか当たり前なのだけれとま)、30人の関係の中で起きていたのだ。
だから、変えるのは29対1の関係のうちのどれかだったのかもしれない。
たとえば、
「お試しでAさんと約束して誰か放課後に遊んでみてくれない?」って介入でも良かったのかもしれない。
ああ、失敗。そこに関しては、私は、Aさんは、誰かを傷つけると仮定してしまっていたのかもしれない。子どもを信じていなかったのだと思う。
でも、これも、しばらく内戦をしたから、聞く耳を持てたことなのかもしれない。
今は今。「目の前が常に最善」ってやつだよなあ。
宿題ってなんだろう
プリントの宿題が提出させっぱなしになってしまい、全部見たら50分かかってしまった。
何のために出して何のために見ているのだろう。宿題に意味が乗りすぎている。
- 子どもの復習(確認)
- 子どもの能力の把握
- お家の方とのコミュニケーション
- 提出する力
- (耐える力、嫌でもやる力、処理能力のアップ)
こんなもんだろうか。
それにしても、いろいろ乗りすぎている。
そして、そんなことで、上の全部が育つ気もしない。
宿題のおかげで、将来仕事についた時に嫌なことを処理できるようになるのか?
いや、いつだって人は嫌なことを処理しない方を選ぶだろうなあ。
宿題よりは、プライドだなんだって気がする。
むしろ、反対に、宿題のせいで、嫌なことは耐えてやらなければならないというのが当たり前になって、耐えようとして耐えられなくて詰むんじゃないだろうか。
「仕事には嫌でもやらなきゃならないことがあるモデル」の世界から脱したい。決意しているなら、やりたくないこともやれるだろうに。
生まれる前・生まれた時のことを知る
お家の方に協力してもらって、「生まれる前・生まれた時に何を思ったか」「名前の由来」などを調べてまとめている。
2年のよくあるやつです。
それを見ながら浮かんだことを毎回振り返りで記録していってもらっている。その中の子どもたちの健気さが久しぶりに刺さった。
お家の方の愛を受けて、いろいろ考えている様が良い。「簡単と思ったけど、とても緊張した」「一つひとつの大切ないのちと思いました」「ぼくはやっぱりお母さんが好きです」などなど。
お家の方の愛情と向き合う子どもたちが面白い。親がどう思っているかを知って自分がどう感じるか。本当は言葉に出さない方がいいのかもしれない。形にすると濁る気がする。でも、その愛情に応える純粋な記録は、いつか、もし見直したときに、自分を我に返すような働きをするのではないかと思うのだ。いつかの自分がいつかの自分に勇気を与える材料の一つになると思ったのだ。
久しぶりに19:00越えまで仕事をしてしまった
でも、してよかったと思える
本当は子どもに尽くしてこういう充実感を得たいのだ。これがよい。でも、やり方が分からない。
194日目:わたしは少しは「うまい」らしい
生まれてから一番幸せだった日の翌日のハピペンです。なんとか、この忙しい中で式を挙げることに成功。冬休みを投資した「自作のプロフィールムービー」も悪くはなかったらしい。本当に3ヶ月半ほど絞りとられたが、よく乗り切ったと思う。のど元過ぎればってやつで、今では懐かしいくらいだ。あの日々すら愛おしい。そもそもの挙式までの最短感がやばい。これっぽちも猶予がなかった気がする。そのくせ、2週に一片「パセージ」にも顔を出しているので、超超超超貴重な土曜を一日それで潰しているのだから。でも、本当によかった。好きな人しかいない空間。心地よすぎた。二度とないかもしれないけど、ずっと胸に残って、この先一生、ピンチの時は、あの日を思い出せれば脳が喜ぶに違いない。そんな日を手に入れられたことが嬉しすぎる!!と初っ端から、関係ないことをつい書き出してしまった。
巡回相談
きちんと駆使することで、学校内やお家の方との連携を強め、その子にかかわる大人も、その子自身をも適切な、その子に合った指導によって、幸せにすることが可能になるかもしれないチャンスだ。
久しぶりのケース会的な時間は心地よく、懐かしく、ちょっと気持ちがハイに。
専門家からの学びは楽しい。そうした人のもつカウンセリングマインドも好きだ。どういった角度で示せれば、みんなが動き出すか、そういうのを考えて策を練っていて素敵だ。盤上を俯瞰して、詰みに迎えそうな手を探る。
そんな中で、「わたしがうまい」という話をしてくださった。もちろんリップサービスというか、私へのケアなことも分かっているでも嬉しかった。この学校に来て、はじめて、支援的な振る舞いを誉められた。私自身は、自分にある支援的な振る舞いとそうでない振る舞いというのを分けているわけではなく、今年度集団を見るようになって、そういうのは薄れたのかな?なんて思ってもいたのだけれど、自然に残っていて、身についているようで、これまでの子どもたちに感謝したくなった。
このじぶんのもっているものをもっと信頼したいなあ。
支援のない学校
支援のない学校の弊害は、支援の見方・考え方で子どもについて語られない点だ。
個人的に今、パッと浮かんだのが、支援がいいのは「合理的配慮」があることだと思う。その子のために、その子の周辺にあるものを生かして、過ごしやすく学びやすくなってもらおうってものだ。
これのいいところは、「その子は悪くない」という前提を作れるところだ。つまり、大きな枠組みで言えば、子どもの問題とされるような行動を「環境因」で捉えて、解決志向ベースで考えることができるということ。
これがないと、子どもの問題行動は、その子自身か親かといったものの問題とされ、いかに「良くなさ」を伝えるかというよな話し合いになってしまいがちだ。
この先にあるのは、下手をすれば学校不信である。それならまだいい、学校に行かなければいいだけだ。問題はさらに下手をすると人間不信にもなりかねないというところである。
問題があると見受けられる子は、その子もまた困っている子である。「ちゃんとしなさい!」と思ったとして、その子こそ一番「ちゃんとさせてほしい!」と思っているのだから、それは、周りの大人たちの仕事なのである。
「支援がない」ということは、「配慮しなくていい」という文脈に置き換わりがちで、自分以外に変わることを強いる危険性があって脆い。
一部を肯定するために、一部を否定するシステムは危険だ。私たちがシステムとして君臨して、それに適合しないから問題視するのではなく、その子がそれで幸せになり得るのかを検討して、いかに自分は悪くないかなんていうどうでもいいことは語られない、人思いの場所で働きたいわね。
193日目:男の子の育て方
私は男子の子育てに向かない。と思い込んで。本を買う。困ると大体3冊あたりをつけて買う。単なる気休めなんだけど、知らないジャンルについては、まず、感覚そのものがないからいいかも。
さて、日報、日報。
言わない気にしない傾向VS.マイルールによる乱暴
うだうだとモヤモヤしていた件について一休み。
これにもいろいろな構造が働いているなあと思う。
どうしても、クラスの中でここだけが、ピンと来る成果を出せていない。4月から残ってしまっている。いろいろなリフレーミングをして気を確かにするも、なかなか苦しくなってきた。
- それだけ学びが大きいはず
- お互いが変わるチャンス
- これだけ変わらないってことはお互いに何かあるってことだ
- 私も成長のチャンスだ
- 諦めなければその分の対応力が上がるぞ
そう。まだ、何かあの子もその子も、そして私も。何か足りないから、これが起こっている。誰かのせいにしたり、気のせいにしたりしている場合ではない。そう思って、向き合う。
「言わない気にしない傾向 VS.マイルールによる乱暴」これは相性が悪すぎる。「言わない気にしない子(Aさん)」がアザを作って帰る。そして、聞き取りがされ、教室での「マイルールによる乱暴な子(Bさん)」の様子が話される。お家の方には心配される。管理職に連絡がいく。こちらからご連絡する。夏休み前には、Aさん本人の不安感がある話を聞き対応していたが、今回は本人よりはお家の方の気がかりの方が大きい様子だった。クラスが荒れているのではないか、という懸念も?(まあ、まったく瀬戸内海みたいに静かではないかな)。
いやーそれにしてものたうち回った。
AさんにしてもAさんのお家の方にしても、とてもBさんに譲歩してくれており「Bさんが怒られるのもかわいそうだからAさんは先生にもなかなか言えない」とお話してくれた(きつく指導してほしいというオーダーもあったため、怒る指導をしたときもあった)。相手方が、その角度だったら、Bさんにも思いが容易に入るだろうなあと思い、敬服した。すごい温かさだと思った。子どもに対する策はすでに月曜日にうっていて、今日振り返ってみると、ひとまずはお互い気持ちよくすごせたようだった。毎日いっしょに振り返りをすることにした。とりあえずの健全な一日があったからこそ、こちらからも連絡ができたわけだ。そして、Bさんの方にも連絡をしていろいろな抑止力となりそうなものを少しずつ行って少しでも抑止につながるよう対応をさせてくださいと話した。
いろいろな角度からのBさん理解があり、Aさん方のBさん理解も深い。これが11か月共に過ごしたということなのだなあと思いもする。
他人なんだよなあ。その中でやっている。お家の方も11か月、もしつながれていたら、子どもはにょきにょき育つだろうなあ。そのためには、私が土日に集めて、学(楽)習会なんかを開いたらいいんだよね。ちょっと夢としてあるなあ。
そして、Bさんの家にも連絡。まだお家の方はいなかった。なんとなくBさんとお話した。Bさんの声は家だと際立って穏やかだった。何をしているか聞くと、マリオだった。少し情報収集した。思ったのは、学校で話すのとまた違った脳を使って話してくれているようだった。どちらかというと、落ち着いて改めて考えてくれている感じ。こういう作戦もあるのだなあと思った。学校ではどうしたって覚醒しているというか、起きた脳で行動しているし、友だち関係といったヒエラルキーなんかも気にした思考をしているかもしれない。それが解けるというような感じがした。いろいろな時間・場所・方法でその子と接触して、情報を聞き出すことで、本意に近づけることもあるのだなあと思う。覚えておこう。そして、Bさんはどちらかというと刺激に素直に反応するほうなので、聴覚情報だけに集中して話せるのが良かったかもしれない。ある時対面している私は不機嫌な顔で接しているかもしれないし、ノルアドレナリンを出させて脳を逃走・闘争状態にしてしまっているかもしれない。放課後の私というのも良い方に働いて、私たちの雰囲気は一時休戦、副音声的、試合後の控室みたいな感じだったのかもしれない。コミュニケーションって面白いなあって思う。
その後、お家の方とも話す。お忙しい様子だったが、話せてよかった。実際、こういったことになることが予測できていないわけでもなかった。だから、4・5月にはよく電話して、Bさんの良さを伝えながら、情報共有をしていた。トラブルについての電話から関係がはじまるのでは嫌だったためである。そのためか、とても協力的で有り難いと思った。子どもともコミュニケーションしているし、ご自身のこともよく見られていてこちらも敬服する。いい人だ。そうしたAさんとBさんがうまくいかないことや、AさんとBさんなど、それぞれのお家の方同士がつながりきれていないことには、多少の違和感がなくはないが。
ところで、お話している際に思ったこと。
これは、どちらのお家にもなのだけれど、「私はあなたの味方です」ということを常々思いながらお話した。実際、お家の方も味方なのだと思った。「同じ時代を生きるのは子どもたち」ということ。これがキラーワードには、なかなかならないだろうな、と思っていて、「とはいえ、うちの子が!」という思いは当然誰だってもつはずだ。しかし、今回のお家の方たちは、それを乗り越えてくれている人たちだと思った。どちらも、そういう目をもっている。サポーター、教育者として、相手の子を見てくれているように思う。尊敬する。連帯感があった。(こう改めて書くのはいいな。私にとってとてもいい捉え直しになる。)
まとめてとして、というか。思うのは、やっぱりどの家にもそれなりの構造はあるってことだ。好きで、そんな状態になっているというわけではなくて、仕事の都合、兄弟の都合、気質の都合、コミュニケーションの都合、立場の都合、時期の都合。いろいろあって起こっている。話をすることで、そういうのが見えてくるだけでも、少し安心がある。原因不明でどうしようもない状態ってわけじゃないと思えるからだろう。
私の中では、いくらか、悪循環のどこにメスを入れればいいかが見えてきてよかった。その突破口をくれたのはAさん方だし、Aさんだった。いつか、Bさんも私も今よりもっと感謝する日が来ると思う。
それにしても、苦しくなくはなかったなあ。
本3冊買っているしね。
本も助けになる
本はセルフケアになる。自分のやっていることや考えによってトラブルを引き起こしているかもしれない時。自分のしていることのすべてが間違いではないということを思い出させてくれる。かたや、苦しませてしまっている子がいるというのも事実なのかもしれないけれど。
あるサイドでは、忌み嫌われたとしても。
あるサイドにおいては、ラッキーな先生な可能性もある。
癒しになる言葉だ。
アドラー心理学で「男の子の意欲」を伸ばす本: 積極的な子、くじけない子、そして自分で考えて動く子に! (知的生きかた文庫 ほ 9-4)
- 作者: 星一郎
- 出版社/メーカー: 三笠書房
- 発売日: 2017/11/22
- メディア: 文庫
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どうしてこうした本を買うかと言えば、自分は「男子を育てること」が不得意なのではないかと思ったからだ。それが分かったのも、このインフルエンザ週間の中でお休みした子のお家へ電話ラッシュをしたおかげ。女の子のお家の方には、とても明るい声色で対応されたように感じたのだった(あくまで感じただけか)。男の子の方もネガティヴってわけではないけれど、ちょっと受ける印象が違った。こうした印象をもっている時点で自分の中に「何かあるな」と思った。特段、苦手意識があるとかってわけではないのだけれど、しかし「男の子の育て方」ってジャンルを意識したことがないなあと思って、そこから、何か歪みは生まれているかもしれないと思った。
ただ、あまり「父親の男の子の子育て」についての本は見つけられなかった。とりあえず気休め的に読んだ。
「何かあったらどうするのか?!」
「何かあったらどうするのか?!」
Aさんから言われた苦しい言葉だ。そして、ジョーカー的な言葉だなあとも思う。必殺的。そう言わせなきゃならないような状況に追い込んで申し訳ないとも思う。しかし、とても向き合う価値のある言葉だなとも思う。その何かについて検討・検証して、対策を練ることが、安心につながるのだとよくわかる。
学校の対応はどうなっているのかという問いもあった。やはり総じて、Aさんの思いや考えは適切だなと思う。お陰様で私も動けた。有り難い。
理解あってこそ
一にも二にも子どもを見ている姿勢をお家の方に示すことは重要である。そして、情報収集と降伏。ヒルルクを思い出す。
トラブルを起こす子というのは、教師の側も「どうなってんだ!」と追い詰めたくなる気持ちも0ではないだろう。しかし、そういうことではない。それでは何も解決しないことは100も承知で、そもそも子どもたちは成長過程で「何か起こり」さえしなければ、ほとんどの問題行動は消失していくだろうと思う。
バークレーの考えと同じように。
そうしたヒルルクの態度であったり、心理療法的な見立てであったりで、なんとかここまで来た。悪いようにはしない。好きを示す。良いところを伝える。そう見ている。そこからの「しかし」が重要。
改めて通常の学級
発達や特性を読み切って通常学級で支援をするのは不可能だと感じた。ただし、授業力があれば、それは可能かもしれない。
児童のサポートが長けていても、授業がおぼつかないと、その力を発揮する猶予がない。これは、同時に学級経営力もら関係する。規律づくり、もとい「子どもが守る規律づくり」がうまくないと児童サポート力は発揮できない。その他大勢にどう鎮まっていただきつつ、サポートをするかが鍵だ。何より学年の先生との連携が重要とも言える。単元の進捗等が共有され妙な焦りさえなければ、ドタバタした授業を減らせると思う。見通しがなさすぎて、苦しい。不安に完敗。そう、要は、自分だって「何かあったらどうするんですか?」状態なのだった。
ああ。この責任のたらい回し。その終点を自分にしてしまう人は生きづらいね。
ああ。嫌な予感は的中しないや。相変わらず。
ああ。そして、やっぱり私の学びになったなあ。それに、また一つ人間を好きになってしまったよう。あなた方を信じたくてたまらないのさ!
188日目:心を取り戻せ!
帰り道の一本満足バーに甘えているハピペンです。ダメだなー。今週毎日買っているかも。タスクが重なり、ストレスフルになると買い始めてしまう。変な条件付けがされてしまっていて抜け出せない。週明け切り替えられるといいが……。不安なのだろうなあ。
心を取り戻そうじゃないか
タイトルは、今日の指令だ2つ出した。
一つは9月にも言った「モノを大切にしよう」ということ。もう一つは「当然やった方がいいことに気がついてもしない人間でいるのはやめないか」ということだった。
どうしたってクラスをよくするのは、一人ひとりの動きだとした。やった方がいいと分かっていることを自分からやる人が多い方がいいクラスになると思わないか。気づいてやらない人間でじゃない方がいいと思わないのかよ!そう人間で在りたいって思わんのかい!と燃えていた(怒鳴っているわけではありません)。
プロと称してそそのかすか
優れた気づきをもって行動できる子がいる。数名いる。自分が正しいと思うことを自ら行える子どもたちだ。すごいことだ。この子達はもしかすると、片付けに特化しているかもしれない。
他に、前向きな言葉を放つことに関して、一目置きたいものもいる。そんな風にそれぞれに特化してもらい、全体を引き上げることも可能かもしれない。これこそモデリングから学ぶパターンで。
たとえば
- 片付け
- 言葉
- 人間関係
に対して、バランス感覚のいい子がいる。そうした子に、胸を張って表立って活躍してもらえたらいいなあと思う。
2学期は話を聞いてるんだか、聞いていないんだかよく分からなかった。けれど、今のクラスの雰囲気は、一応「アイツ正しい、話聞いておこう状態」である。別れの力じゃないかと思う。最後に話を聞いておこう、コイツから学べることを学んでおこう。そこまで思っていなくても、その儚さみたいなものを感じているように思う。ある意味ではそのタイムリミットに対して私が本気なのを感じ取っているのかもしれない。焦りは無用なのだけれど、熱を帯びて、思いを伝えているつもりだ。
そんなことを言ってさ
このツイートを見て、ちょっと失速。
そうだよなあ。吠えたってなあ。私の見立ての甘さだよね。3月に帳尻合わせたいからって凄んでアホか。
冷静に考え直し、我に返る。
しまった!
— パピペン(❛ᴗ❛)b (@kn_penguin) 2019年2月1日
もしかしたら、また課題を横取りしたか、自分の課題を押し付けてしまったかもしれない。
肝に命じよう。一年で自発的な行いまでまともになったとしたら、そうとうな個人の入れ知恵があるのであり、個人が成長したわけではない。目を気にしているだけだ。できることは、諸能力の鍛錬のみだ。
あーあ。
驕りを捨てろ。私の出来ることなんて微か僅かの霞なのだ。仕切り直さんとなあ。
186日目:暴力ってなんだ?
平易。へーい!へいっ!ハピペンです。なんだかなあ。通常営業です。かつ、通常営業のグレードがあがってしまったというか、授業準備がそこそこ出来たり、ノートをよく書いていたり、発言してくれたり、授業楽しいって言ってくれたり、クライマックスに向けて全員レベルが上がってきた感があります。というか、ようやくハピペンに慣れたって感じもします。それが浸透するのも、子どもを変えてきたからなのではないか、と思いたい。「この人の言っていることちょっと分かってきたわ、確かにみんな変わるね」ってベネフィットが提供できているかもしれない。
ただ、長いわ。全員ちょっとずつで、ぐわ!って感じなんだよね。だから、時間がかかる。「もう一年見れたらもっと、君ら楽になるだろうなあ」なんてことを最近よく思う。
どうして、そんな効果があるのだろうと思い返していたのだけれど、やっぱり、なんだかんだ「勧善懲悪にしていない」というところが強みだと思う。何がダメか。一応建前上言うけど、無理なものは無理で、止まない「立ち歩き」「おしゃべり」「暴力」はある。そんな最低最悪みたいな教室なのだけれど(すべての問題行動はパートタイムで、目立った暴力は月1ほど)、変わっていく。
立ち歩きはなくなり、切り替えは上手くなり、暴力は減少し、マシになっていっている。
そして、昨日「暴力が止まない」ということをエントリーしたのだけれど、誘発しているのは、外界なわけで、そこにも注目してみることにした。
「暴力は悪い」
それを前提とした上で、暴力する側でない方へのアプローチを考えた。案の定、今日も同じ子同士のやり取りが起こっており、それを数人が止めていた。自発的に身体を間に入れて当事者意識をもって止めているように感じた(ハピペンお前は止めないのかよ!ってね)。私はというと「ああ、この子たち、本気で止めようとしてくれているな、これは、いけるかもしれんな」なんてことを思っていた。
そこで、止めていた子どもたちを集めて、昨日話したことを使いながら、私の考えを伝えた。
昨日、話したことというのは、京大の鯨岡先生の言ってた、
「自分には根本的な二種類の欲求があり、それによって『私』と『私たち』、二つの自分がいる」という話だ。
そして、
「暴力はよくない」とした上で、「暴力は『私』か『私たち』かを問うた」。当然「私」となる。そう。
次に、じゃあ、暴力を振るわれている二人は「私」か「私たち」ではないかということを伝えた。実は、というか、その二人が仲が良いことで、間に入りたい子によって暴力は誘発している。もし目的を「暴力を発生させない」ということになると、教室の席や図書室で本を読むときなど、限られた環境下において、一緒に行動しなければよいだけなのだった。
「暴力が悪」と定まっているから目につかないが、「おい、ここ学校だぜ?」と私はどこかで思っていて、同じ論理が暴力をしている子の中でも言葉にならないとしても、必死の訴えとしてあるように感じた。
「公私混同しているのは誰か」ということだ。
ある子どもが暴力を我慢するのと同じように、逐一ある子といたいという気持ちを我慢する必要があるのだった。もし「暴力を発生させないこと」が目的ならば、である。
そうして、止めに入っていた子どもたちを解き放った。「もし、君らも暴力を止めることを目的とするなら、誰が悪いかではなく、ある子どもだけが我慢するのではなく、周りの子も考える必要があることを伝えてくれ」と頼んだ。
今日に関して言えば、そこから、暴力について報告されることはなかった。
私は危ういことをしていると思う。
「暴力をした人は、何がなんでも、絶対、誰が何と言おうと、どう足掻いたって、とにかく悪い」ということを覆している。
言い換えると「暴力をした人間は不自由でなければならず、暴力をしない人間は自由である」ということを覆している。
「暴力をする人間も、暴力をしない人間もある程度不自由である」という状態をつくり、「暴力の発生させない」ことを実現することにした。どの子も対等であるというのは、どういうことなんだろうか、と。今も頭の中がスッキリしない。
「ある条件下において、子どもは対等である」ということなのだろうか。たとえば「どの子も暴力をしない場合に限り、子どもは対等である」っていうような。
これは、実社会につながる話だと思う。しわ寄せというか、そのもの。暴力をする方も人間だってことだ。人間として対等に扱えってことだ。悪いから悪いってのはない。それは、これまで、見落とした歪でもある。誰かがどこかで見落とした歪。