夢では以前の教え子が出てきた。勇気がくじかれている様子だった。あの頃の事実で勇気づけできる人が身近にいることは、有用なリソースだ。いないことは、損だ。しかし、どの人の中にも、誰かしらは宿っている。その源泉に触れられるか。内側への探求。外側との接点による海馬の刺激。
ハピペンです。
暴力の止まない子
月曜にストーリーが変わった。いろいろあると、間に入って話を聞いて、やり直すとなれば、謝る場面に付き合う。
ただ、それでは、関係修復でしかなく、良くはならない。だから、関係に作用したい。どちらかというと、プラスの関係にしていきたいのだ。
なので、単純に、「ごめん」「いいよ」の後に、お互いの良いところを一つ言ってもらうことにした。
すると、暴力する子は「スマブラがうまい」という話が出た。
そこから「今日うちでやる?」と今までと別の子が入ってきた。
そうして、これまでの関係が大きく動いた。
暴力をする子は、別のこと遊ぶようになったのだった。
「その一言」によって、局面が大きく変わった。
その影響に驚く。
「変わる」ということは、ほんの些細なことからはじまる。
タイミング、内容、抑揚、言葉、しぐさ、目線、場所、時間など、いろいろな要因の中で、「ある一言」があるだけで、事態は変わる。それも良い方に変わるのだった。
本当は、その変化を引き起こす「些細なこと」を処方できるようになりたいのだけれど、なかなか難しい。
そうだ。
大きく見落としていたんだ。
「Aさん、Bさん、Cさん」のコミュニケーションの何を変えるかを考えすぎていた。
実は、これは(というか当たり前なのだけれとま)、30人の関係の中で起きていたのだ。
だから、変えるのは29対1の関係のうちのどれかだったのかもしれない。
たとえば、
「お試しでAさんと約束して誰か放課後に遊んでみてくれない?」って介入でも良かったのかもしれない。
ああ、失敗。そこに関しては、私は、Aさんは、誰かを傷つけると仮定してしまっていたのかもしれない。子どもを信じていなかったのだと思う。
でも、これも、しばらく内戦をしたから、聞く耳を持てたことなのかもしれない。
今は今。「目の前が常に最善」ってやつだよなあ。
宿題ってなんだろう
プリントの宿題が提出させっぱなしになってしまい、全部見たら50分かかってしまった。
何のために出して何のために見ているのだろう。宿題に意味が乗りすぎている。
- 子どもの復習(確認)
- 子どもの能力の把握
- お家の方とのコミュニケーション
- 提出する力
- (耐える力、嫌でもやる力、処理能力のアップ)
こんなもんだろうか。
それにしても、いろいろ乗りすぎている。
そして、そんなことで、上の全部が育つ気もしない。
宿題のおかげで、将来仕事についた時に嫌なことを処理できるようになるのか?
いや、いつだって人は嫌なことを処理しない方を選ぶだろうなあ。
宿題よりは、プライドだなんだって気がする。
むしろ、反対に、宿題のせいで、嫌なことは耐えてやらなければならないというのが当たり前になって、耐えようとして耐えられなくて詰むんじゃないだろうか。
「仕事には嫌でもやらなきゃならないことがあるモデル」の世界から脱したい。決意しているなら、やりたくないこともやれるだろうに。
生まれる前・生まれた時のことを知る
お家の方に協力してもらって、「生まれる前・生まれた時に何を思ったか」「名前の由来」などを調べてまとめている。
2年のよくあるやつです。
それを見ながら浮かんだことを毎回振り返りで記録していってもらっている。その中の子どもたちの健気さが久しぶりに刺さった。
お家の方の愛を受けて、いろいろ考えている様が良い。「簡単と思ったけど、とても緊張した」「一つひとつの大切ないのちと思いました」「ぼくはやっぱりお母さんが好きです」などなど。
お家の方の愛情と向き合う子どもたちが面白い。親がどう思っているかを知って自分がどう感じるか。本当は言葉に出さない方がいいのかもしれない。形にすると濁る気がする。でも、その愛情に応える純粋な記録は、いつか、もし見直したときに、自分を我に返すような働きをするのではないかと思うのだ。いつかの自分がいつかの自分に勇気を与える材料の一つになると思ったのだ。
久しぶりに19:00越えまで仕事をしてしまった
でも、してよかったと思える
本当は子どもに尽くしてこういう充実感を得たいのだ。これがよい。でも、やり方が分からない。