かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

幸せってなんだっけ(旧:生きるって楽しいじゃん)

 

幸せってなんだっけ

 

「うまい醤油がある家さ♪」

ってわけなんだけど。

 幸せってなんだっけ。

 幸せってのは主観だってのが世の中によくある考えだ。
 けれど、その主観っていうのは、何もしていない自分から沸々と湧き出てくるものではなくて、あくまで自分が外界に働きかけて、その反応が心地よいから幸せと感じるのではないかと思った。
 
 その、どの反応を心地よいと思うかが人それぞれなんでしょってことなんだけれど、それって幸せは自分の行動が環境を通して自分に返ってきて幸せと捉えられるかどうかなんじゃないかって。
 
 「自分一人では幸せは作りきれないのかもしれない」って思った。

 幸せの起源も少し見ておこうと思って調べてみた。
 
 語源は、本来は「めぐり合わせて」ってことだったそう。そこから幸運の事態を表すようになり、自体よりも気持ちの面に意味が移って「幸福」となっていったらしい。
 漢字の「幸」は、手かせを描いたもので、手かせをはめられる刑罰にかかる危険から免れたことを意味し、思いもよらぬ運に恵まれたって捉え方がされるらしい。(参考:http://gogen-allguide.com/si/shiawase.html
 
 倫理学や哲学や心理学を辿ると、「幸せ」と「正義」がイコールなのかどうかを考え続けた歴史が見られた。結局、幸せは主観的なものか客観的なものかって議論が未だに続いているのだけれど。
 心理学的な研究から、人間が幸福を感じやすい状態の型みたいなものはあるみたいだ。(参考:http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/1632/1/0140_008_004.pdf
  
 「主観VS.客観」って話があったけど、これは少し言い換えると、「感覚VS.状態」ってことみたいだ。
 感覚だけが幸せだと捉えてしまえば、道徳的に善いと言えないことも人間の幸せと認めてしまうことになる。しかし、本当にどんな姿も快楽さえあれば幸せと言えるのだろうか。そんな考えから、脳に電極を付けて、幸せな感覚さえ味わえれば、自分は水にプカプカ浮いていても幸せな生と言えるのかと言えば違うだろうって考え方がある。
 反対に状態だけが幸せだと捉えてしまえば、自分がどんなに不幸だと思っていようが、とある何か(大衆が幸せだと捉えるもの)さえ持っていれば幸せということになる。また、客観的な幸せだけが認められると、この世界の価値観の偏りが起こる危険もある。客観的なとある幸せを目指さない(目指せない)人間は、NGってことになりやしないかってことだ。
 
 個人的には、この両方に手を伸ばせていることが幸せなのではないかと考えた。

 こんな感じ。幸せとは、トータル的には「継続的なより多くの幸せになれる可能性の高い生き方をしていること」だ。もう少し短く言うと、幸せな感覚に成りやすい状態の生き方ってことだ。この状態は、振る舞いとも言い換えられる。

 ただ、これは「続・人間らしさってなんだっけ」に書いたけれど、人間は常にある状態でいられるわけではないし、その出来事に対する評価はその時その時の自分の状態によって違う。ってことは、その時その時で、たとえばこれまでの自分に対する幸せかどうかの評価も変わるし、幸せな型の捉え方も違うだろう。

 この世界では、その幸せな型の違いが存在するっていうのは重要な尊重しなければならない考え方だと思う。
 たとえば、誰かの世話をすることが道徳的で主観的な幸せも得られて、そのおかげでさらに誰かに大切される可能性が高い幸せに成れる可能性の高い型だとしても、世話をされることが幸せな人間がいるってことだ。
 
 地球規模で見れば、この需給のギャップが少ないことが世界の幸せが大きい状態と言えるかもしれない。
 これは、地球からコミュニティの規模を小さくしていっても当てはまるかもしれない。家族であれば、家族内の持ちつ持たれつが成り立っているという状態だ。

 この需給のギャップを少なくするというのには、当たりまえに当事者同士の意思の伝達、表現が必要である。全自動でお互いの幸福が分かり合える部分もあるとは思うが、その自動的な感覚だけに頼るのは危険だと思う(力の強さで誰かしらが押し殺される可能性があるからだ)。なので、コミュニティの中の風通しの良さは大切だと思う。

 そして、さらに、風通しをよくと言っても、そもそもの手にしたい幸せの状態を自分なりにイメージし、表現できなければ、また需給のギャップを少なくするのは難しい。

 上に挙げた、需給のギャップと表現を埋める前提で、幸せな状態に成りやすい生き方をしていくことが、幸せに近づく手がかりになるかもしれない。
 
 もう少し簡単に考えられる言葉を探したいと思ったのだけど、言ってしまえば、
 たとえば「みんなを尊重する」ってことかもしれない。

 そんな、月並みな、と思うかもしれないが。「みんな」を大切にする考えは大事だ。

 「みんな」とは、当然に「みんな」のことであり、これには自分も自分以外も含まれる。
 この自分と自分以外のバランスに勝手さが多いと、その関係の幸せは崩れやすくなると思う。

 主観だけでなく、客観だけでなく、幸せについて判断する目が必要なのだ。
 そうなると、私が善いと思っているのだから善いという考えや、誰かが善いと言っているのだから善いというわけではなくなってくる。幸せはその両側から見て善い、もしくは、少なくとも、どっちも嫌な感じのしない必要があるのだ。たとえば、自分の幸福が他人の人権を侵害しないってことなのだろう。

 それでも、永久的な幸せな状態っていうのは存在するのではないか。そう感じる人もいるかもしれない。
 それは、幸せを感じる条件を生命の根本的な部分にもっていけば不可能ではないかもしれない。
 たとえば、息をしているってことに幸せを見出すとか、生きているって事実に幸せを見出すってことだ。
 そんな感じでいくと、何が起きてもこの世の摂理に従って生きる幸福を感じられるかもしれない。
 ただ、それほど多くの人ができることではないと思し、この感覚を続けるのは難しいと思う。
 一つは、主観的な幸せは自分次第で感じられるとしても、それが自分以外にどう作用しているのか感じにくいからだ。けれど、息は二酸化炭素は植物の光合成に必要だし、食べ物を食べれば自然の循環の中に作用していると感じ、自分以外の作用を感じるかもしれない。
 それで、生を継続して謳歌できるならいいのだと思う。
 でも、一般的には、どうしたって生きていれば、衝撃的なことが起こるときがある。誰かは死ぬし、怪我や病気もするし、失くしものもする。それでも、これらも生きてさえいれば、収まる場所を見つけ、自分は日常に帰ろうとする。そのとき不幸だと思っても、やがて平穏は訪れる。
 消極的に考えれば、幸せってのは「取り返しのつきにくいことが起こらない確率が高い日常が幸せってこと」に近いかもしれない。
 
 もう一つ、幸せを手に入れるには、最低条件がある。それは「生きている」ってことだ。もしかしたら、もう生きていない人間がこの世の幸せを手に入れられている可能性はあるのかもしれないが、今のところは確認できない。「生きている」ってことが条件なのは、とても分かりやすくて素敵だと思う。
 もし誰もが、世界中が幸せになることを求めるなら、誰もいなくなってはいけない前提が成り立つ。反対に一人でも「自分だけや自分の極身近な人だけが幸せに生きればいいと考えたり、誰かや一部の人間やある人間たちは幸せにならなくていい」と考えがあれば、その「誰か」はいなくならさせられる可能性があるわけだ。
 もし、そんな考えを持っても主観的には幸せに往生したとしても、その先、不幸が蔓延する可能性は高くなるだろう。幸せに往生した「気がする」だけで、よくない感覚はこの世に残るわけだ。
 幸せな気がする人生を生きたければそれでいいだろうが、人生(人間らしい生)を全うすることを考えても悪いことはないだろう。

 ここまで来て「自分一人では幸せは作りきれないのかもしれない」という話を掘り下げたい。
 もし、全体の幸せを問うなら、自分は誰かに作用し、需給を寄り合わせる必要がある。そうしたお互いの生は、その後も幸せを保持して、生を継続することができる。強引に自身だけを幸せにする手段を取ることも可能だと思うが、それは、それこそ、幸せではない状態である取り返しのつかないことを起こす可能性も高まる。
 そして、「継続的なより多くの幸せになれる可能性の高い生き方をしていること」と言った。ここに出てくる生き方こそ、誰かの生を搾り取るような生き方ではなく、「全体の幸せ」を考慮する生き方なのだ。

 私は、もし完全な幸せに辿り着きたいとしたら、他人に幸せを与える必要があると思う。

 幸せを与えられるということは、幸せを持っているということであり、その渡せる状態だけが、確かにあなたが幸せだった証拠だからだ。もし幸せがなければ、その人は幸せをどうして与えることができるだろう。
 自分一人が幸せだと思っても、気のせいの幸せでしかないと言ったのはこのためだ。
 
 幸せには主観と客観のミックスが必要なのだ。
 
 自分一人でも幸せな感覚は得ることができるかもしれないが、やはり、幸せは作りきれないのである。
 誰かに喜んでもらう体験をすれば分かることだが、自分だけを幸せにする人生が残すものよりも、誰かを幸せにする人生の方が残すものが多いと感じるだろう。
 
 その誰かを幸せにする自分の生は、きっと自分にとって幸福だと感じるだろうと思う。

 ただ、それはいくら慈悲的でも、自己犠牲的でもいいのだけれど、「継続的な」という部分を考えたら、「みんな」の幸せが大切である。自分の幸せも表現し折衷してほしい。

 幸せは、生きていなければ得ることができない。あなたも生きていなければ、より多くの全体の幸せは得ることができないのだから。
 
 そして、 幸せな生き方は、やがて
 「自分の人生は生きるに値する」
 「これまで生きてきたかいがあった」
 「生きるって良かった」
 という幸せに必ず辿り着く。

幸せってなんだっけ。

一人じゃなくて、自分の手の届く距離に誰かがいるってことなんだ。