人って、お返ししそうか、それを実行しそうかを見ているらしい……「ハピペン」です。
人々は相互のコミュニケーションに拘束・コントロールされている……???
昨日「ありがとうの花束」をはじめたい!と思って、お花に「ありがとう」を書いてもらおうとした。
そこで、ビミョーと思ったのが、つい書いてもらうと誉めてしまうところ。
「いや、ありがとうってほめられるからするもんじゃねーだろ」
書いたことで、相手がどんな気持ちになるか、自分はどんな気持ちがするかをメタすべきだ。
無意識に他者をコントロールしている気がした自分が嫌。こういうコントロールの質は低い。行動を操作しようとしている辺り。それで身につけさせたいこともあるのかもしれないが。
以下、最近のコントロール三部作。
そのまとめの記事として以下は続き。
私は何かメリットを感じてコミュニケーションをしている。コミュニーケーションは人を拘束する。コントロールする。
今朝「利他的な行為」の起源について本を読んだ。どうしたって利己が含まれると理解した。
どうしたってしてしまうなら、コントロールの質を上げたい。せめて、人として相応しい方を選びたい(ちょーむずいだろ)。
もうね、どんな自分も本来的自分は存在しないのかもしれない。そんなことを思う。コントロール(環境の影響)を受けて取捨選択してきただけ(その取捨選択の一部こそ遺伝と思う)。
全部後付け。
だから、私は、「私を生きている」というよりは、「パターン」を生きているのだろう。
いつ頃作られたパターンか。
何によってそれが確信に変わってきたのか。
私のパターンは変わらないところもある。
しかし、生きる環境は変わる。
だとすれば、アップデートがいる。
元のプログラムに、付け足したり、選択肢を増やしたり。ちょうど、携帯にカメラが載ったような感じや、スマホに変わっていったようなイメージでよい。
生きる社会が変わるから、自分のパターンも変える。それが、大人になるってことかもしれない。
支援級で育む力を一言で言うと「適応力」と言った先輩がいた。
困難に直面しても、自分が自分を保ってなんとか適応できる力が身についたとき、人は「大人」になるのかもしれない。
トータル、言い直せば、必要なことは、コントロールされるだけではなく、自分でこそ自分をコントロールする(しようとする)力を身につけること。自分なりに長生きできる状態にいること。
自律と自立。
そのよりよい自分のコントロールに向かっていくには、既存の自分ではパターンでしかなく、それ以上が生まれないと思う。
ならば、どうやって今の自分以上へと向かうか、どうやって「自分を越えるか」。
この二人もそういうステージを突破しようとしている(と勝手な印象をすみません)。
Beyond Lab #1の振り返り 【 自分の目指す学び場の形に気がついた 】 - 小学校教師ふたせんの朝3時からの共育現場〜育つ育てる育てられる〜
私なりのヒントは自分の外にブレーンをもつことだと思っている。もちろん選択権は自分で、ただ、判断材料や思考に他を入れることが重要。
私の場合、最終判断は、年始に掲げた「四字熟語」を頼ることが多い。
ただ、保有しているパターンをどうするかは、自分次第。
個人的には、本当の自分なんてものはいなくて、後付けなんだから、今の感覚で行きたい方、生きたい方を選べって思う。
無思考で無意識の虜が一番あぶない。
唯一、自覚的な再選択が、本来の自分に近づき得ると思う。
まず、それが、上位概念や抽象語に変えたりするとパターンでしかないことに気づく必要がある。
そして、そのパターンによって、あることを回避しているか、再現していることに気づく必要がある。
それから、そのパターンを続けるのか、新たなパターンを試すのかを選択するステージが訪れる。
言いたいのは、なんであれ、あなたはもっとあなたを楽しめるということ。
あなたは、誰かのパターンを生きている。
あなたが、あなたのパターンを生きていると自覚できたとき、そこでしか味わえないものがあるはず(自己啓発臭がすぎるが……)。
とりあえず、コントロールし合っている自覚をもって、質を脅かしすぎない選択を考えたい。
そうして、また、今日から生きていく。