かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

個性ってなんだっけ(旧:生きるって楽しいじゃん)

 

個性ってなんだっけ。

ここで言いたいことは、二つある。

 一つは、「ハピペン」は、せっかく「ハピペン」なんだから!ってことだ。

 私たちのそれぞれは、どうしたって唯一無二だ。何をしたって、自分らしさが表出してしまう。
ちょっと野暮な話かもしれないけれど、バンドをやっているとコピーが大事かオリジナルが大事かって話が出たりする。結論はどちらも大事なのだけど、どちらを優先してやるかっていうことが話し合いになる。コピーをやったら個性が出ないとか、反対にコピーをやることでオリジナルを作ったり演奏したりする力をつけようとかって。
 こんな話をしているとき、雑誌でいい言葉を見た。それは「個性のない人はいなくて、何を演奏したってその人の個性は出る」って言葉だ。たとえば、どんなにコピーを完全にしたって、その人らしい部分がどこかしらに出るってことだろう。確かにそうだ。コピーと言えば書類が浮かぶが、書類の印刷にしても、コピー機によって多少の仕上がりの違いがあるだろう。要は、そのコピーを「やりたい」って気持ちが個性とも言えるのかもしれない。(「やりたい」って気持ちが個性。この言葉は、結構大事だ。)

 もう一つは、「個性って能力のことじゃない」ってことだ。そして、珍しいことや、人と違うことをすることでもない。個性的と個性がごっちゃになっているのかもしれない。
 個性的はあんまりいないってことになるかもしれないけれど、個性がないってことと個性的じゃないってことは違う。
 そして、大前提として大事になる考えとして「個性がない人はいない」。その遺伝と環境にいる人間はこの世に二人といないのだから。人間は生きてさえいれば、その生に個性が表出することになる。
 そして、その個性への賞賛の総体数が、この世での評価となってしまうところがある。その個性を貫くのか、支持されるのかなどの判断に周囲の評価があるだろう。個性は、ただ在るのに、それを認めないっていう世界があるんだ(個性でも、それで周りに迷惑がかかっていたら話は違うところがあるけど)。
 それでも、根底のこの世の筋では「この世に一人しかいない自分をそっくりそのまま大事にしよう」ってのがある。大事なのは、自分の中にある感覚が、他の人と違うからって何も苦しむ必要はないって知ることだ。あの人はできるのに、自分はできない。それでいい。それを「やれるようになりたいか、やれないままでいくのか」そこが個性だ。できること、できないことが個性なんじゃない(また、ランドセルの色を選ぶことが個性でもない。その色を選ぶ理由は個性かもしれないが。また、その色を選ぶ友達をどう思うかも、個性になるかもしれない。違いを認めるとかってことは。たとえば、全員同じ色だったとして、それをどう思うかの方が「個性」ってことだ。すごーく余談だけど、一年生の五月ぐらいに「お父さんの言う通り普通の赤にすればよかった」と言っている子どもを見たことがある。この感じ方も個性だと思う)。

 そして、あなたの人生が「どんな個性なのか」は、自分が変えていけるところもある。やっぱり、捉え方とか、選択の仕方とか、内面的なものなんだ個性ってのは。ここから、少し考えを広げると、要は「生き方」ってことだ。物事や出来事と、自分がどんな風にかかわるか。あなたが「誰かと何かとかかわるほど、個性が表れる」ってことになる(これも大事な考え)。

 個性が見えないと思う場合、かかわりの総数が足りないってことが考えられる。そんな時は、いろいろな人とかかわってほしい。
 個性ってのは、ただあるものだし、比較するものでもない。少し見渡しやすくするために比べることはあるとしてもね。
 個性ってのは、単純に個の性質のことだ。その対象がもつ性質。これが好きとか、あれが好きってこと。ここに優劣は別にない。
 だから、どんな個性があっても心配する必要はない。
 
 繰り返すが、決して、何が「できるとか、できない」の話ではないのだ。

 その個性は、ただ、そう在るだけ。この個性、個の性質、その人ならではの感覚はなんのためにあるのかってことなんだけど、これは一つの、もってきたここで今生きるための、選択するための材料なのかもしれない。
 もし個性がなかったなら、何事もなんとも思えないわけだ。何かをいいと思うことも、何かをしたいと思うことも。だから、元々もっている性質を基にして、したいことや、もっとやった方がいいことなんかを整理して選択するんだと思う。

 注意を二つの視点で書くけど、一つは、そんな中、周囲との比較に飲み込まれて「○○○●●」(自分の名前、ポリシー、感情)を捨てんなよってことだ。こんな自分は嫌だって克服するのはいいとして、それができるようになったのが個性ってのじゃなくて、それを克服しようとしたのが個性なんだ。どうするのかの「選択の仕方」が個性なんだ。

 繰り返すけど、何が「できるとか、できない」とかが個性ではない。

 もう一つは、できるかできないかは個性の結果であり個性ではない。選択が個性である。その選択を正しくさせることが指導となる。できなくてもいいかどうかは、私というより社会が決めることである。もう少し言い換えると「できない方(かた)、でき方に対する処理の選択が個性」となる。

 また、自分なりの正しい自分で自分を選択していないところに真の個性はない。だが、人は常に100%真剣ではいられない。だから他者が必要とも言える。その選択すら個性として見過ごしてしまうのは、個性の崩壊、誤った個性の捉え方だ、ってことだ。要は、そんなかんたんなことをやる意思を出せないことを「はいはい、それがあなたの個性ね」ってことで片付けていいのかって話になる。

 「できないのと、やらないのはちがう」やれない能力は個性というより、ただの怠慢ではないか。周囲の人間が本人の個性なのか、その個性を越えてでも社会に求められる、最低限の生活力は、先人が導いてやる必要がある。できないことを認めるのはいいが、見過ごすのは愛なのかって。
 トータル、「話せよ」って思う、自分はあなたにどうなってほしいのか、あなたは自分をどうしたいのか。選択は何も一人でしなければならないものではない。「頼れよ」とも思う。手伝ってくれる誰かはいる。千人聞いて一人もいなくても、一万人聞けば誰かはいるかもしれないだろ。人間を、地球を、自分を諦めるなって思う。
 
 そして、いわゆる人それぞれに違う個性ってやつに、それでも種類はあるとして、社会が求める個性と、人間として認められる個性とに差があるのが事実だ。余談だが、大方、求められる個性は、「社会が求める能力」とかって検索すれば出ると思うけれど、たとえば「熱意・意欲」「行動力・実行力」「協調性」とかってある。こんなのは、誰にでもあるものだろう。それぞれ、何にこれが向くかが違う。個性は誰にでもあるから、勝手に何かにこの三つが向かう。ただ、注意しなければならないのは、この三つが自分に在ることを社会や他の誰かに伝えるには、ただ在るだけでは伝えられなくてテクニックがいるということだ。それが、在るということが伝わる根拠が必要になる。そして、当然その根拠を伝えるための表現力も必要になる。

 そうして、ここまで来て、今回言いたかったことは、言いすぎれば、個性のすべてを包括する考えは、「個の性質」だ、って話だ。個は、一人ってことで、「一人の性質」。この「一人の性質」と言ったら、まず、一番に挙げられることは「生きられない」ってことだ。
 僕らは、どうしても誰かが必要で、誰かを求める。一人で生きていたら「個性」って言葉は出てこない。そもそも「個性」は誰かありきの言葉だってことだ。
 で、それがどうした?って感じだと思うけど、「個性とは、一人では生きられない」ってことだ。これは、万人に当てはまる。ってことは、「その個性は誰かに接触するためにある」んじゃないかってことだ。はじめの方でも言ったけど、その個性は唯一無二で、誰かと生きるためのツールの一つ、生きていくうえで選択するためのパートナーみたいなものだってことだ。
 さらに、この性質が、自分以外の全員に当てはまるわけだから、結局、すべてのどの個性にも価値があると考えて、目の前の誰かを大切にできるんじゃないかってことだ。
 「社会が求める能力」を見てみてほしい、「熱意・意欲」「行動力・実行力」「協調性」。これは、ただ、誰か相手を大切にしようって能力じゃないだろうか。
 「いや、違う。僕の個性は僕だけの個性だ。自分だけの世界を信じて、突っ走っていく。僕だけの個性で、これは誰にも分かりっこないんだ」そう言う人もいるかもしれない。もちろんそれでもいい。地球はどんな誰だって認めてくれる。そして、その先。もし、誰も認めてくれないなら、死んでしまえばいい。自分はいなかったことにすればいい。それで、完成。そういう人もいるかもしれない。心からそう思う人はそれでいいと思う。もう個性がなんなのかは知っているから。

 ここからは、何度も言うように「選べる」。もう知ってしまった後は、選ぶしかないのだ。個性を自分だけのものと捉えたその先。これが「自分だけでは生きられない、誰かとつながるためにあるもの」と思うか、「自分だけのもの」と思うかは、選べる。これが、個性だ。けど、ただ、どうしたって「個性」には勝てない。

 もう一度だけ言っておくけれど、「個性」は、「個の性質」は、「一人では生きられない」ってことだ。たくさんの誰かを自分の中に住まわせることが、心地よく生きるためには大切になってくる。だから、誰も認めてくれないなら、死んでしまえばいいって考えが出てくる。一人では生きられないからだ。そこまで考えていない場合は誰かに対して「死ね」って言葉が出てくる。そこまで考えていないのと、誰も分かってくれなくて(分かってほしい人に分かってもらえなくて)淋しいってわけだ。

 さらに、もう一度言っておくけど、そうして私たちは、それでも、選べるわけだ。何をどう感じるかは「自由」だ。自由は、「自分の本当の本心に従うこと」だとして、いつの自分、どの自分が本当の自分だったのか。もちろん、今の自分も大切な自分のうちの一人として、何を望むのか。本当に欲しいものはなんなのか。
 
 取り戻せない人生はない。
 もう遅いってこともない。
 思い出せる限りさかのぼって素直になっていい。
 
 そして、その欲しいものが、今、現実的に手に入らないものでも、その思いや気持ちや考えは大切に取っておいていい。
 手に入る順番が違うだけで、必ず報われる日は来る。だから、欲しいものを求めていた(求めている)自分を見つけたら、「その自分」に恥じないような(たとえばだけど、亡くなった大切な人は、あなたが悲しんでいるのを見て喜びますか?という言葉の雰囲気に近い。あまり好きな言葉ではないけど)「その自分」が喜べる自分を選んでいいと思う。本当に。もう引き返せないなんてことはないんだよ。

 「気づいたときには、手遅れ」ってことはこの星にはない。
 おーっと、個性から話が逸れたかな、と。

 まとめよう。
 えーっと。認められない個性はないよ。欲しいものを欲しがっていい。選択していい。ただ、それを「誰かに言えよ」って思う。
 表現不足だ。その個性が適わないのは……(自分でも、「あーはい、そうですか」って感じだけど)。

 私もまだ戦っている最中。表現がうまくいかない(まあ、それはみんなよく分かっていると思うけど。だって、こんな文章だもの)。パソコンの左上にも「表現力!」って貼ってある。また、さらに考えればさ、「誰もが表現がうまくいかないだけ」とも考えられるわけだ。

 「誰にでも個性はあるから」

 その誰にでも在るはずの個性を。個性を殺しているのは誰だよ、って話になる。誰もが生きていいと思っていない、優劣をつけて「誰か」を認めていない、誰かを一人にしている誰かがいるんじゃないかって思ってしまう。だったら、お前が表現を引き出せよって思ってしまうわけだ。誰かを追いやるな。手を伸ばして引き止めろって。

 当然に「いらない個性」もない。もし、少しでもわかってもらえたなら。

 「いらない個性はない」ってこと。
 人は一人ではいきられないってこと。

 個性が表現できなくて困っている人がいたら助けてあげてください。「どうしたの?」でいいと思います。また、個性が出せなくて困っている人。誰かとつながってみてください。対面して話せる場を見つけられたら、尚、良いです。

 生きていれば必ず見えてくるものはあるさ。

 そんな、個性ってなんだっけ。
 それは、「あー忘れてた。僕は、一人で生まれたんじゃなかった」って話だ。