かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

向山式

向山式について書く。

 

最初の出会い。大学の図書館にズラーっと全集があるのが目に止まった。

 

すでに網羅的に教育法というのは、提案されているのだなあと驚いた。困ったら、こういうものを参考にしろということかなとも思った。

 

タイトルを見て、自分の中にスッキリとした解答が浮かばないものをパラパラと見た。すごいなあと思ったし、反対にこれは、知らないことは知ってないとマズイとも思った。

 

それから、時間を見つけては、立ち読み風に全集に目を通すようになった。

 

ただし、その時その時の思いつきで見てしまっていたために、心に残っているものもあれば、残っていないものもあるし、どれに何が載っていたかが曖昧になってしまっている。

 

そして、今年。改めて自分の力のなさにようやくはっきりと気がついて『授業の腕を上げる法則』を、きちんと身体に染みるように読んでいる。

 

実際にその身体で子どもに触れると、子どもは伸びるし、楽しそうだし、私も楽しいと感じた。

 

向山式には「対40人の子どもが、教室という小さい部屋にいる時の、そこに携わる人間の行動規範が示されている」と思えた。

 

時間と空間という制約がある中で、「こうしたい時には、こういうやり方」というのがよく示されている。

 

学校は特段、「時間の制約」があまりにもありすぎるのだと、今は理解している。そうなると、どうしても効率性を求めざるを得ない部分がある。では、どうすれば「40人が効率的に学べるか」の作法が向山式には示されていると言える。

 

伸びやかにその子なりのペースでいいのなら、向山式は必要ないだろうなと思うが、教科書を辿るだけで時数が目一杯なので、そうした余裕は今の現場にはないなあ、と思う。

 

学級とは、学級経営と言われるように、教師はそこの経営者である。何かをさせなければならない部下を、40人抱えた組織なのである。

 

その何かをさせるための、規律を経営者が示さないと、各々の判断で行動が選択され、学級という組織は空中分解していく。

 

実際は、一人ひとりの「思い」を大切にしながら、経営していくことも可能だろうと思う。ただし、それには、経営者の人間力が必要である。教師だからというのではなく、誰でも話しかけたくなるような、人となりである必要があるということだ。それは、見た目からはじまり、立ち振る舞いや、特技、ユーモア、これまでの実績などなど、世の中でインフルエンサーと呼ばれる人のような魅力が必要だと思う。いわゆる『影響力の武器』にあるような項目のことだ。一言で言えばカリスマ的かということてまある。

 

私にそれはないなあ、と思う。だから、足で稼ぐしかなくなる。単純接触回数を増やして、コミュニケーションを重ねて、組織を経営していくしかない。ただし、学校にはその時間がない。特別支援学級では、できた。それは、一人当たりへの時間数が、通常の学級より多いからという単純にそれだけのことである。人は時間のゆとりさえあれば、誰とでも仲良くできるのだろうなと思う。

 

通常の学級3年目にして、ようやく分かった。つまり「ハピペンの手法では、一般的な人の目から見て通常の学級で果たすべきと思われるような責任を果たせない」ということだ。

 

時間というコストをかけまくれば、なんとかなるかもしれない。日記を書かせて、毎日コメントするとか、定期的に個別に話し合う時間を設けるとか。ただし、現実的ではないと思う。関係づくりに、コストがかかりすぎてしまう。実際に必要な関係は、1年程度もてばいいもので、一生続くようなものでなくていい。反対に、コストをかければ、その分関係は続くものになるだろうと思う。

 

もちろん関係の中には、フィーリングが合った、かつ8:2の法則もあるため、時間とっていようがいまいが、影響力が強く働く子もいる。

 

1年目は、ある子が転出してしまうということが、クライマックスだった。その子は、なかなか席を立つ子だったが、その子がその子でい続けながらも、周囲の寛容とか愛とかによって、受け入れられるということを体験し、みんなが微笑ましくなれた雰囲気のある物語だった。ただし、学習を全員に自分が満足いくように教えられなかった実感がある。

 

2年目は、違和感があった。管理される楽しさを提供しきれなかったからだと思えた。

 

話を向山式のことに戻す。向山式は、いわばバンドスコアである。いつかギターの雑誌に「コピーにも個性は出る」と書かれていたように、どんなに完全コピということをしても、そこにその人の個性は出るということだ。そうなると、どんなに法則化が形式貼ったものでも、自分というものは現れてくるだろうと思う。そこで大事なのは、「自分はそれを演奏したいか」たいことになる。自分の耳で聴いて、その曲をいいと思うか。その過程をすっ飛ばすと法則化は、よくない。その人が何を奏でているかではなく、その人が奏でていればなんでもいいとなってしまうからである。それでは、盲目である。自分は、演者ではなく、ファンになってしまっている。教師であれば、教師ではなくファンになってしまっている。教師だから、ある指導の仕方が必要だと感じて、それを学ぶことと。ある教師がやっているからと理由で、私もそれをやるということ。では、後者は、ファンでしかない。

 

昨年、組んでいた先生は、学級経営が上手だと思った。この間久しぶりに教室にいっても、今年はさらによい雰囲気だと感じた。

 

いろいろな子どもの見方を教わったが、今になって見ると、随所に向山式が散りばめられていることが分かった(というよりは、長い教師経験を積むとそうなっていくだけなのかもしれない)。特に、「個別評定の原則」が重要だと感じた(なんと、これは「第九条」の原則ということで、明日が楽しみである」)。

 

今日、本を見ると、その先生のやり方に近かった。

  1. 丁寧に書いたかどうか、先生が見ることを知らせる
  2. 書き方を教える
  3. 評定することを知らせ、不合格ならばやり直しをさせる
  4. ◯か×、A・B・Cなどの評定をノートに示す

 

評価は「うまい」「よくできた」「かしこい」「はやい」「よくがんばった」などであり、評定は狭い範囲で、子どもの力のレベルの位置を定めることになる。

ハピペンは評価ばかりだった。ただし、評定は、競争の脳を呼び起こしましてしまうと思う。だから、いろいろな子がいろいろな場面で活躍し、どの子も良い評定をもらい得るように活動を考えたり、視点をもったりする必要はあるだろうなあ。

 

話をまた元に戻すと。そうした、熟練した人の振る舞いの中にある、子どもが安心できるような。もとい、「対40人の子どもが、教室という小さい部屋にいる状況」で、安心できる組織づくりに必要な振る舞い・リーダーシップ・作法が、向山式には散りばめられている。

 

そして、自分の教えたいことを教えるには、さらなる効率化も必要で、スピードが上がって、リズムが良くなって、テンポも早くなって、時間を確保する必要がある。それには、杉渕先生の「ユニット式」が役に立つだろうなと思う。これもまた学習していこうと思う。

 

もちろんカリスマティックに、その時の学校での立場に応じて、学級で影響のある存在として君臨できることも多々あると思う。ただ、うまくいかないと感じたり、自分の満足感がない体験をしたから、「自分で在る」ということよりは、普遍・不変の技術が必要だと思った。そして、どうしたって、何を学ぼうが、何をしようが、そこに自分というものは、いつだって在るのだから、これでやっていく。

 

新版 授業の腕を上げる法則 (学芸みらい教育新書 1)