かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

真実ってなんだっけ(旧:生きるって楽しいじゃん)

 

真実ってなんだっけ。

真実とは。
まず、辞書の意味(goo)。
1 うそ偽りのないこと。本当のこと。また、そのさま。まこと。
2 仏語。絶対の真理。

「真理」の意味も。
1 いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理。

どうやら、真実ってのは、不変で誰もが正しいと思える物事の筋道だそう。

先に私なりの具体的な見解を。

真実とは、
「個々のこの世の認識そのもの」である。
この認識が行動の選択に作用し、人生が選ばれる。

以下に真実について考えたことを書いていく。
(これは、これが全人類の共通の真理だったらいいな、という願望のような話です)

まず、「真実=正しさ」ってことではない。少し言葉を付け足す必要がある。

「真実=一般的な正しさ」ではない、という感じだろうか。
どういうことかと言えば、真実にはその人その人の主観がどうしても入るってことだ。

つまり、
「真実=自分が正しいと思うこと(誰かや何かによって思わせられること)」
である。

人は、自分が真実と思うことを真実と捉える。
真実かどうかの判断に、周囲からの情報や本人の性格も作用すると思うが、「自身が真実ではない」と考えた場合「現実や事実、道徳的な正しさ」をいくら「真実」として伝えようとしても、どうしても伝わらない。
(もちろん、一人ひとり伝わり方の特性はあるから、たとえば、言うのではなく、書面にするとか、第三者が言えばとか、内容以前に伝え方によって、真実だと捉えてもらえないこともある。)

一般的な道理の真実があるというのは、社会生活を円滑にするための言葉のあやみたいなもので、本当は、一人ひとりが自分が生き抜くための真実をもっている。

それは、簡単には覆せない。
覆せないから、一つの真実を示して、それ以外の個々の真実を内包することで巻き込もうと思う。

我々にとっての大きな枠組みの真実について、それが一体何なのかと、ぐるぐる考える。

まず、そもそも、この世に「真実があるのか」という話をする。

推測の域を出ないが、真実が在る確率は高い。
なぜ、私たちが、ここに存在するかの道理があるのだ。

なぜなら、ここにいる私が、真実とは何だろうと思い浮かべていて、それを求めている。ならば「私なりの真実はある」に違いないと思うからだ。

私は、「自分がその真実を追っているのか、すでに持っているのか」が気になった。

言い直すと、
・真実は今手元にはなく、真実に辿り着くことが、私たちの今すべきことなのか。
・真実はすでに手に入っていて、真実を持って生きていくことが、私たちの今すべきことなのか。

もう少し言い直すと、
・私たちは、真実に出会うために生きているのか。
・それとも、真実に沿って生きているのか。
だ。

そして、真実を捜しはじめた。
以下の話も推測の域を出ないのだが、3つのポイントを書く。

もし真実があるとしたら。

それは、分かる人にだけ分かって、分からない人には分からないものなのだろうか。仮に、まだ知らないということはあっても、分からないということはないのではないか。さらに、分からないということはあっても、そのルールに含まれないということはないのではないか。

この考えから、私は、
「真実は単純で短く分かりやすい」だろうと思った。


次に、この世が始まってからこれまでの、一貫した一つの真実があり、私たちがそれに携わっているとしたら、真実は変わらないだろう。変わってしまっては、真実は捉えどころがなくなる。真実がその時その時で変わってしまったら(その人その人で変わってもいいとして)この世を包括している真実がないことになる。そこで、きっと不変だろうと考えた。

この考えから、私は、
「真実=変わらない」だろうと思った。

たとえば、私が生きている間に変わらないもの。(自分がずっと自分であることとか)これこそ、私の求める真実だ、と思った。

1の考えは2で納得できた。
(だって、答えは5文字だったもの。または、2文字。真実=自分)

じゃあ「変わらない存在は全部真実なのね」はい、終わり。
ってわけじゃない。

そもそも、この世に変わらないものなどない。
すべてがその場に留まり続けることはない。

となると、


今度は「変わり続けるということが変わらない」ということが真実だろうと思った。
真実としては、申し分ない。この世界では、私たちのすべてが変わり続け、先へ進み続けることから逃れられないのだ。時間が戻らないように、私たちはいつまでも相変わらず変わり続けるという真実の中にいるのだ。

自分探しなんて言葉が一時よく聞こえたけれど、
自分自身の真実の一つは、延々と変わらない法則、「私は変わり続ける」ということだった。
(一定の自分なんていないが、唯一ずっと一定なことは、自分が自分であるということだ。自分とは、変わり続けるが、自分が自分だということは変わらない。まさに、真実らしいように思う)
自分が、延々とこの状態のままであることはないのだ。
その時その時によって確実に変化することが保障されているのだ。
(自分は探さなくても相変わらず変わり続けて存在し、そのときの自分が自分をどう思うかが、自分だってこと。)

これは、希望だ、と思った。

どんなときも、必ず変化するのだ。
この変わらない真実の中に私たちはいる。

先の疑問に対する答えだけど、
私たちは、真実に出会う以前にすでに真実の中にいるし、真実に沿うというよりは真実には勝手に沿ってしまっている。
と、思った。

私にとって(あくまで私にとって)、真実とは何かは、「真実=地球で生きる私たちに働いている『生きやすく』するための不変の仕組みのこと」だと思った。

そして、あくまで仮定だけれど「変わらないこと」が大きな枠組みの真実だったとしても、いわゆる自分なりの真実が何かということが、個人の判断に委ねられるのは、「個々の『生きやすさ』によって真実の見解が左右されるから」だと思った。
それぐらい、この地球の一人ひとりの人生はオリジナルで、唯一無二で、替えの利かないもので、自由で、許容されるってことだ。

これも、また、希望の一つだ。
「あなたは、あなたにしかできない」

ただ、問題は、「自分なりの真実」のはずが、何者かによって積み上げられた、自分(の本質)とかけ離れた真実であった場合、自分は生きづらくなる。それこそ、自分だけでなく、周囲の人も巻き込まれる。
もっと言えば自分は、何者かによる真実に呑まれて自身の生きづらさを直視できなくなり、自分が自分からかけ離れていることに気付けないまでになっている可能性が高い。
何者かによって、食いつぶされているからだ。

だから、たとえば、生まれてすぐに死ななければならなくなるようなことが起こる。
何者かによって。または、誰かが作り上げてきた、何かによって自分の真実を見失っているからだ。(社会によって?)

真実は、あくまで「自分なりに」見つけなければならない。

私は、一人ひとりそれぞれに、選んで「ここ」に来ている(生まれてきている)と思っている(私たちが死のうと思えば死ねてしまうように、向こうでは生まれたいと思って生まれてきてるわけだ)。

それは、私たちが、一人ひとり「真実をもって(生きる意味、理由、目的)」生まれてきたからだ。(理由なく死ぬ人はいないのと同じで、理由があって選んで生まれてくるのだ)
この真実は、お腹の中にいるときにも蓄えられる(周囲の人からも自分が生きる意味・真実に影響を受けるということ。どんな風に生きていくのかや、場合によっては死が選択されることもあるということ。ただ、生が選ばれれば当然、この世にいる人に作用し、死が選ばれてもその人たちの経験として生きた事実は残る)。

そして、私たちがいる大きな真実の枠組みに「変わらない」があるように、「持ってきた真実」の枠組みもある。

「もってきた真実」は、「命(運命)」だ(どう生きようって計画)。私たちは自分の「命を運び」に来た。

そして、「命運び」には、「時間」が必要となる。
だから、ステージは「変わり続ける」ことが「変わらない」という真実(絶対のルールに時間)があるわけだ。(これの親切なところは、「どう変わるべきか」は、指定されていないところで、私たちは私たちなりに命を運ぶことが許される)

ここで、一度まとめる。(真実が出てきすぎた)

まず、
一番大きな真実。(私なりの)
「大真実」とでもしようか。
大真実は、真実は「変わらない」ということ。
これは、「変わり続けることが変わらないということ」

次に、
この宇宙とか地球の真実。
「中真実」としようか。
中真実は、真実は「命と時間のルール」があるということ。

最後に、
私たち個々がもってきている真実。
小真実とする。
小真実は、真実は「個々の認識」によるということだ。

この三つの真実をもって、真実に沿って我々がいるわけだ。(何度も言うが、これらの真実は、小真実から生まれた私の考えにすぎない。)

そうして、私たちは、真実をもって、真実の中に来た(真実を追っているのかもしれないという疑問は残るが)。そうすると、またもう一つ疑問が湧く。

私たちは、真実をどこから取って、持ってきたのか、ということだ。
私たちは、誰かが用意した、真実(命)と真実(時間)で生きている。

どこからという出発点を考えたときに、前世やら来世やらいろいろ考えた。
死後の世界があるかないかは、分からないが「あると思ってないより、ないと思ってある方がやばい」ってのは有名な話で。
ある方が面白いし、いろいろと辻褄が合うと思った。
すると、私たちがこっちに来ている理由が大雑把にだけど想像し、納得できた。

私は、この考えに至りたくてずっと考えていた節がある(やはり、真実を追っていたのか)。

この考えを閃いたときは、本当に視界が開けて、肩が軽くなったような気がして、すごく嬉しかったのを覚えている。(確か、吉祥寺の方のポプラの前。営業で歩いているときだった)

私の真実の中では、どこからか私たちは来て、どこかへ私たちは帰っていくと考えている。

心ってなんだっけで、人は「心と体と魂」でできていて、魂は自分以外のすべてと話した。私たちは、もともと一つで、の製造元は一緒なのだ。そして、納品先も一緒である。
この世では自分と誰かが同じ存在だと感じられることはあまりないけれど、同じところから来て、同じところへ帰ると考えると、本質的なところで「あなたは私で、私はあなた」という心と体と魂の話の辻褄が合う。

ただ、これは知っている人は知っている話だと思うけど、一つのときには別々のことは体験できない。だから、そこから離れる必要がある。そして、生きているときに、死んでいることが体験できないように、私たちは、生を体験するために、一つだった製造元から離れる必要があった。

さらに、「どこから来てどこへ向かうか」を考えているときに、前世が織田信長という人が何人もいるとか、前世がベートーベンとか言う人が何人もいるという話を聞いた。私は「死後の世界はかなり自由だ、むしろ、なんでもありだ」と思った。

要は、どこの誰の経験も感じることができるのだ。すべてが一つに帰るために。

生と死は同価値と私は思っていて、向こうの世界もほぼほぼ似たような生活なのだろうと考えている。違う点は、それこそ真実の違いなのだ。こっちの世界とは反対に、あっちには「命」と「時間」がない。

それ以外はすべて同じなのだろうなと思う。トレンドとかもあって、たぶん、織田信長とかベートーベンを経験するのが流行ったときがあるのだと思う。

少し説明しにくいので、こっちの世界とあっちの世界の概要を話す。(あくまで、私の真実ね)
よく死後の世界には何もないって意見もあるけれど、それも真実の一つ(この世で誰かが真実だと思ったことは、すべて真実なのです。そう思っている間は)。

こっちの世界は、
「限りの有る世界」→「有限の世界」
あっちの世界は、
「限りの無い世界」→「無限の世界」
と、呼び分ける。

この仕組み。人の生と死は、山手線みたいなもんです。(回るってこと)

いきなりだけれど、まず、駅のご紹介。

1.「生」
我々で言うところの生まれてから生きている間のこと。
2.「死」
我々で言うところの死ぬってこと。

これらは「有限の世界」にあることです。
「有限の世界」とは、必ず限り(個体、時間、空間)があり、終わりがある世界ってことだ。
その対照にあるものが「無限の世界」で、「生の前、死の後の世界」(「有限の世界」は「無限の世界」に内包されている)。
無限の世界では、なんでもできる。同時にいくつもの場所に存在できるし、どんなことでも知ることができる。
ただ、なんでもできるっていうのは、本当の意味でできるとは言えない。「できない」が存在しないからだ。なんでもできるから、「できない」も存在できるのだけど、分かってはいても体験できていない、というようなイメージ。

無限の世界では、なんでもできるため、死後が無だと思っていれば、死後に無を経験できます。

3.「無」
これは、「有限の世界」と「無限の世界」の両方にあって、とにかく「何も無い状態」です。死後行きたい人は無になることを経由します。
ただ、先に言ったように無限の世界ではなんでもありです。何でもあるということは、同時に何も無いのと同じになる。と、いう意味でそれを無と呼んでいるところもあります。
「無限の世界」のコンテンツの一つです。「有限の世界」でも無を体験する人がいます。そのときに、未知の何かとつながることがあるらしいのですが、それは「無限の世界」を体感したのではないかと考えています。

4.「元々のはじまり」
これは、「無限の世界」でのはじまりのことです。
私たちの製造元、『一つ』の状態の始まりのことです。「無限の世界」はかなり自由です。限りがないので、自分と相手の区別、時間の概念、空間の概念もありません。「いたい時」に「いたい所(点)」に「いたい状態」でいられます。すべてを(どんな時代もどんな生物も)体験できるため、比較ができません。そのため、自分が体験したというよりは、見たとか知ったとか分かっているという方が近いです。こっちの世界で言うところの夢みたいなもので、それを選んで見ているような感じでしょうか(えっ、めっちゃいいじゃんって?その通りですよね)。

5.「元々のおわり」
これは、「無限の世界」での終わりのことです。
私たちの納品先、『一つ』の状態の終わりのことです。
終わりと言ってもなくなるとかではなくて、「一周回りました」みたいなものです。その後は、また、別のはじまりに行きます。

6.「無限の世界」
これは「元々のはじまり」と「元々のおわり」がある世界のことです。はじまりでもおわりでもなく、「無限の世界」にいる状態もあります。この世界の中に「有限の世界」(我々の世界、生と死)があります。

ここからは、なんとなくの認識で良いのですが、
7.「真のはじまり」
これは、宇宙(私たち)のはじまりのようなもの。

8.「真のおわり」
これは、宇宙(私たち)のおわりのようなもの。
と、ここで、そもそも「えっ、なんで有限の世界にわざわざに来るの?」と思う人もいると思うのですが、この後に書きます。

次は、想像し得る路線図。
5パターンあります。


「生」→「死」→「無」
生まれて生きて、死んだ後は、何も無いというパターン。
生死の考えの多数派な気がします。
(私の考えでは、無は「無限の世界」のコンテンツの一つなので、やがて「無限の世界」へ戻ります)


「無限の世界」(もしくはどこか)→「生」→「死」→「無」
これも、1と同じくらいよく考えられるパターンかもしれない。これは、1でも言えることなのだけど、無が永遠の無だという考えもある。でも、それだとなんで生きているのかよく分からなくて、生まれたかいがかなり減る。「死」で、ただ終わってしまうなら、生まれた瞬間死ぬ方がマシだって話になる。そんなわけはないだろう。または、この世には「何も残せない人はいない」としても、何かを残すことが人の生と言えるようになってしまう。


「生」→「死」→「無限の世界」(もしくはどこか)
あくまで、始まりは「有限の世界」の生、という考え方。ただ、これだと本当に手ぶらで私たちはここに来た感じになる。私は、もっと選んで考えて意気込んで生まれてきていると思う。


「元々の始まり」→「生」→「死」→「元々の終わり」
「無限の世界」でも始まりから終わりがあるという考えで、「無限の世界」の元々の始まりと元々の終わりの間に「有限の世界」の生と死があり、「有限の世界」と「無限の世界」は一つの流れが決まっているよという考え。


「無限の世界」→「生」→「死」→「無限の世界」
これは、「無限の世界」での計画(考え)で「有限の世界」に生まれて来ていて、死んだ後また「無限の世界」に戻り、振り返ったり、また別の経験を見たり、知ったりするというパターン。これが「本線」だと思う。たくさんの人の人生が、この路線だと。4と違うところは、「無限の世界」での始まりや終わりはなく、延々と回るというところ。4と合わさって、「元々の始まり」があり、何回か回った後に元々の終わり」へ行き一旦終わるとも考えられる。

まぁ、現実がどのパターンでも支障はなくて、この中から好きな真実を選べばよい。
いろいろ考えやすいのは、5のパターンだ。

もう少し補足する。

まず、なぜわざわざ「有限の世界」へ来るか。
これは、「物足りなさ」やその時の「トレンド」だと思う。
生と死は同価値。生きている状態(有限の世界)と死んでいる状態(無限の世界)は、ほぼ同じような環境なのだと思う(めざましテレビがあるかは、分からない)。
なので、我々が「死後の世界ってどんなかな」という感じに、向こうでも「有限の世界」が気にされるわけだ。
かつ、向こうはなんでも叶ってしまうので、「物足りなさ」を感じるときがあり、有限という制約のあるこっちに来たくなる。
来るにはいろいろ条件があって、たぶんそれを全部呑んで(親とか、息するんだよとか、この場所だよとか)やっとこさ来ていると思う。
いろいろ計画して、来たくて来ているのだ。(だから、それを途中でやめちゃうのは、そもそも目的外だろ、って話)

そして、向こうでは、いつのどこの誰でも経験できるって話をしたのだけれど、その中で、今ここにいる私たちは、この時代のこの場所の自分を選んで来ているわけで、これは私たちの「トレンド」みたいなものだ。今の自分は「ここだな」って思ってきている。だから、ここで生き抜くべきだ。そうして、体験できる何かがあるということ。
「有限の世界」での体験は「無限の世界」では決してできない。たとえば、より経験を本物にする作業とも言えるかもしれない。つまり、何を経験しても得るものがあると言える。でも、人間として来ているんだからってのも考えたいところだ。

「今、自分がすべき役割は何か」と考えると見えてくるものがあるかもしれない。

「無」からの脱出についても書いておこう。これは、簡単で、無限の世界では自分も相手もなく、あなたはわたし、わたしはあなたになる(すべてが経験できるからだ)。
無を経験すると同時に、無を経験しないこともできるわけだから、当然、無じゃない方にも行ける。
何もかも経験できるという時点で、無みたいなもんで、生前のイメージの無→「無限の世界」での経験が起こるに過ぎない。

話をもの凄く戻す。
真実を「どこから持ってきたか」という話だ。

私たちは、「無限の世界」(または「真のはじまり」)から「有限の世界」に憧れて、真実を持ってやってくる。私たちは、向こうで自分に求められてやってきたのだ。

そして、また私たちは真実へと帰っていく。私たちは、真実の中にいる。生き抜けば分かることだが、行き着いた先の壁には真実が飾られていて、私たちはいつかまた、真実を垣間見るのだ。

これを、
大中小の真実を包括する「真・真実」とでも呼んでおく。
こっちの世界を含む、こっちの世界では想像しきれない真実のことだ。

さて、
繰り返しになるけれど、真実は「考え方で変わる」と言った。
真実は、結局、今の自分に引っ張られる。

たとえば、先の5つのパターン(真実)の中で、どう思うと生きやすいか。どれを真実と思うかに過ぎない。(どんな答えを選んでも自由だ)
意味のあること、意味のないこと、自分の感覚で決めてほしい。
(真実=自分)

自分が楽しいと思えば、それをしてほしい。

言ってみれば、結局のところは、本当にそれだけだ。

一つ思うのは、途中で終わっても、最終的に終わっても行き着くところは同じ「無限の世界」で、「有限の世界」にいられる間はこっちを体験した方がいいじゃない?って話だ。だって、こっちを体験しに来たんだから。

何も急いで戻る必要はないだろ、って。

一つ、問題は、この真実を知らなくて、せっかくみんなで有限の世界に来ているのに、追い出そうとするようなそもそもの目的を見失って行動している人がいるってことだ。すべての体験に意味があるとして、その貴重な経験の一つを追い出すような体験は必要なのかな、と。
それでも、必要だと思うならそれを許すしかないのだけど。もちろん、意味はあるんだけど……。また、その体験が不要に(これは向こうでのトレンドでなくなれば、もう体験しきったと)なれば自然となくなるとも思う。

どうしても必要なことが、今、総合的に世の中で起きている、とも考えられる。
でも、その出来事を、本当に私たちは必要としてるの?死ぬ必要ってあるの?と、向こうの自分と向き合って決める必要はある。
向こうの自分が全部合ってるってわけでもないけどね。

いくら、何を決めてきたところで、自分はこっちの「ここ」にいる。

今、「ここ」にいる、私がどう思うかが、一番の真実だ。それでも。今、これを見て、いろいろ思い出すことは、すでに予定されていたことなのかもしれないが。

もう少し、材料として、昔の日記を載せる。


2006年09月08日19:24
「この世の真実……」
自分が興味を持つもの以外には、興味を持たなくていい。
それは、結構楽だ。私は、真実が知りたくてすべてに興味を持った。だが、すべてに興味を持ったからすべてに興味がなくなった。運命は流れている。すべては必然。選択をするのは自分。

当たり前のことで、世界は……有限の世界と無限の世界で成り立ってる。それを知ったからって知らないよりかはまし。その程度だ。ただ、どこかに自分がここにいた証を残したい。 2006年09月11日17:26
「続・真実について」

この世の形は五種類。一つ言えることは、すべてに共通することだけは真実なのではないか、ということ。

真実は、自分の感覚と言えるもので判断をし、今その時を生きるということ。つまりは、どんな時もあるのはその時、「今」だけだ。だから、そこで、自分なりに生きるということ。目的なんてない。「今を生きることだ」

もし必要ならば、自然とそれは来る。
死んだ後のことは死んだ後に考えればいい。
真実を知って絶望するなら、真実は知らない方がいいのだ。

3つだけ掲げるとしよう。
・自分のために生きること
・自分を大切に生きること
・自分が楽しく生きること
必要なのはそれだけだ。

(※自分が何かを捉える必要はある←これは、今の私のつっこみ)

2006年09月13日19:37
「大切なこと」
すべては、自分で気付かなくてはいけない。自分が自分であることに。

そうして、初めて自分を大切にできるだろう。
自分として生きることができるだろう。

そうして、自分が自分でいられるようになる。

これは、どうしても他人では気付かせることができない。
「自分で」気付くことだ。


結局、その時、目の前にある世界が答えだ。

今まで、自分が信じたもの以外が真実だったことは一度もない。

全員が、世界をつなぐような真実を抱けると良いのに。
もし、誰もが「世界中の人間が同時に幸せになれると考える」という真実を抱いたら、全員がそのために動き、誰もが生を謳歌できるかもしれないのだ。

真実ってなんだっけ、私たちは、今、確かに「ここ」にいるということ。