雨も濡れてしまっていもいい!となると雨は楽しいと思った「ハピペン」です。
外の体育倉庫を整理しました。雨の中エバーマットを二つ運んだなあ。
さて、今日で「相模原障害者施設殺傷事件」から1年ですね。
検索すると「毎日新聞」の記事に行きついたので、それを見ながら思うことを書いていきます。(全2回)
結論は「自分事にする」です。
「意思疎通のできない人を刺した」
犯人は、2016年7月26日未明、「津久井やまゆり園」の居室で就寝していた入所者43人を次々と襲撃。
その際、施設にいた職員たちの手を拘束して連れ回し、個々の入所者について「会話ができるかどうか」を確認した上で、殺傷に及んだとされる。
逮捕後の調べには、「意思疎通のできない人を刺した」と供述しているという。
連れ回された女性職員は最初、「この人は話せません」と正直に答えた。すると、目の前で入所者が刺された。「自分が話せないと答えると殺されてしまう」。そう気づき、「話せます」と答えるようにしたのだという。捜査幹部が言う。「途中でうそと見抜かれてしまうまで、何人かは助かった。相手は刃物を持ち、何をするか分からない。自分の命を危険にさらして入所者を守ろうとした」。
どんな人が被害に合ったか
母、悲しみ癒えず
長女は母を「ママ」と呼び、幼いころはトイレまでついてきた。3歳で自閉症とわかった。言葉での意思疎通は苦手だが、手をつなぎ、寄りかかるように甘えた。
「相模原障害者施設殺傷事件」とは、こういう子が殺された事件だ。
この事件では「意思疎通」が一つのキーワードとしてある。犯人は、「意思疎通ができない人」を殺していった。
「意思疎通」や「意思」って何か?「コミュニケーション」って何か?を今一度問いたくなる。
「意思」とは
意思とは、
人間の心のハタラキのうち、<何ごとかのぞみ、決定するハタラキ>のこと
引用:「新版 哲学・論理用語辞典」
とても分かりやすい。
ここで気にしたいのは、おそらく犯人はこの定義で「意思」を使っていないところだ。
働いて接していたなら、利用者は「のぞみ」も「決定」もしない存在だと認識していないだろう。
調べてみると「自己紹介できるかどうか」と定義してたらしい。
このオリジナルな定義の「意思疎通」は、それこそ犯人の望む「意思疎通」だったいうことだ。しかし、利用者たちはそれを望んでいないために、意思疎通ができなかった。利用者たちには「のぞみ」や「決定」があったのだった。
今回の話で意思疎通ができないのは犯人ではないのか、といったことを太田光が言っている。
爆笑問題・太田、障害者施設殺傷事件の犯人「意思疎通できぬ人刺した」との主張に反論「大切なのは受け取る側の感受性」 | 世界は数字で出来ている
こちらのブログでも。
「相模原障害者施設殺傷事件」に対する、爆笑問題・太田光のコメントがすごすぎる。 - うさるの厨二病な読書日記
意思疎通は、言葉をどう定義して使うかで、ここまでズレるということに驚きを隠せない。これはコミュニケーションについての話とほぼ合致すると思う。
ここで、コミュニケーションとは何かの話がしたい。
「コミュニケーション」とは?
"コミュニケーションとは、常に他者との関係の総体" *1
どういうことかと言えば、コミュニケーション力がない人というのは存在せず、コミュニケーションは常に自分と相手次第ということだ。
つまり、コミュニケーションできないと感じることを、相手のせいにするのは間違っている。
一年経っても犯人は、
「意思の疎通が取れない人は安楽死させるべきだ」
と言っているようだが、やはりそもそもの「意思疎通」や「コミュニケーション」とは何か?という問いが抜けてしまっていて、身勝手な行動につながっていると思う。
教師に限らず様々な大人がの誰もが、誰かに対する「コミュニケーション能力がない」という判断に気を付けるようにしたい。そして、それが未来の子どもたちが多様さを認める姿勢につながっていくのだと思う。
犯人は、どうして「意思疎通」ができないと捉えた人を殺したのか
やまゆり園に平成24年から約3年間勤務していた植松被告は、入所者について「多種多様な個性」があるとした上で、入所者の行動を「奇声をあげて走りまわる者、いきなり暴れ壊す者」などと表現。
「最低限度の自立ができない人間を支援することは自然の法則に反する行為です」と持論を述べ、勤務経験から「彼らが不幸の元である確信をもつことができました」と差別的思想を持つに至った経緯も記した。
もう一つ
Aは障害者を「税金無駄」と揶揄
ここで、この事件が起きてよく聞くようになったもう一つのキーワード「優生思想」が浮かぶ。
「優生思想」とは
「優生思想」とは「優生学」に基づく思想である。
「優生学」とは、1883年にゴルトンが創始した「個人や人種を形態や知能においてランクづけする遺伝的決定論」である。
ナチスの民族衛生政策にもつながっていき、優勢な民族による劣等民族の淘汰が進歩だというナチズムの人種思想へと展開する道筋を生み出し、大きな負の遺産となった。
参考:「岩波 社会思想事典」
個人的には価値観の多様化はここまできたのだと感じる。
優勢・劣等を個人的な感覚で決めつける。そこまでは精神の自由で許されるとしても、それを社会一般に転移し、価値観を実力行使で押しつける。
これは、大きさは違えど日常の中でも起こっていることだと思う。
やたらな叱責や怒鳴る指導を見る度にそう思う。
これを防ぐには「心の教育」が叫ばれそうだが、その心の教育の大切さのストーリーや哲学がなければ、教育することは難しいだろうと思う。自分もまだまだ全然多様性を認める基盤や覚悟を持てている自信はないのだが……。
たとえば
- G7で話し合われた共通価値「生命の尊重、自由、寛容、民主主義、多元的な共存、人権の尊重」
- 林竹二の教育実践
などから学んでヒントを得たいところ。
犯人は何を優勢としたか
私の考えるおおまかな幸せとは『お金』と『時間』
前に書いた記事でも紹介したが
「障害者福祉は税金の無駄」という意見はなぜ生まれるのか、経済学の視点から考える | LITALICO(りたりこ)発達ナビ
この中に気になる表現がある。
経済的苦境というのは、排除の論理に“正当性”を与えることがある
毎日新聞でもこういうコメントがあった。
「経済的に役に立たないかもしれない人間も生きていていい。それが普通の社会なのでは 」
「障害はただの個性。差別しないで」
犯人は「経済」「お金」に関して、これは言い換えると「生産性」に関して、優勢と劣等を分類したと考えられる。
いつの時代からか、人は人に価値をつけるようになった。私はこれが元凶の一つだと思っている。
世界には、支配するものとされるものがいる。世界をよくしていくには、支配される側の苦しみ、「おかしいこと」をなくしていくこと。否定を否定することで減らしていくしかない生きにくさがあるのだろうと思う。
私は関連すると思っているのだが、日本は、経済施策に税金を多く投入している。教育よりも断然多い。これが、現代の日本の国民性の割合なのではないかと思ってしまう。
国レベルで、家庭レベルで、個人レベルで、経済力によって人の価値基準や優先順位が決まるということだ。
どうあがいても私たちが何に価値を置いているかが問われるとしかいいようがない。たとえば、「早くしなさい」「もったいない」と怒鳴る姿を見ていてあの子たちが「遅い」「お金がかかる」「生産性がない」と感じるものを不幸と捉え命を抑圧・排除するかもしれないのだ。
人は人を「価値のあるもの」にできるか
それでも、人は人を「価値あるもの」にできるか。もし、経済・生産性によって人間の価値が決まってしまうとしたら、この世界では、生まれもったものによって、価値が決まってしまうのだろうか。
そう生まれた自己責任論、そう生きてしまった自己責任論ってことだろうか。
ここでは、人は人を「価値あるものに『できる』」としたい。
私は、それが教育の力だと思う。
教育には「無から有を生む部分」と「そもそも有であることを伝える」という役目があるように思う。
これは言い直せば、教育とは「そもそも有であるものに気づけていない有さを伝えることと、その有さの中でまだ芽がでていない無である有さをよりよい有に成長させること」である*2。
それは、誰がするのか
私は、この「無→有」「有→有改」にすることが他者の働きではなされずに「自分一人で行うものだ!」としたときに殺人が起こるのではないかと思う。
これには事件のように肉体的に殺すことも含まれるし、それだけではなくて、精神的に追いつめることも入るだろう。
ここについては「オルヴァンス・ベルガ―」の言う、ノーマライゼーションの本質「社会的役割の有価値化」が関連する。
「社会的役割の有価値化」とは、「オルヴァンス・ベルガー」によって提唱されたもので、「価値が劣るとみられる人たちを価値ある祖納にしていくことを目指す理論」である。
その背景には「ノーマライゼーション」の考えがあり、ベルガ―は「障害者が社会から逸脱しているというのは、周囲の人々によるラベリングにすぎない」とし、社会的に価値がないとされている人々に対して、社会的に価値ある役割をつくりだしたり、それを維持できるよう援助していくことが「ノーマライゼーション」の本質であるとしている。
参考:横須賀俊司「ノーマライゼーションに求められるもの−多元主義の思想−」
つまり、ここまでくると、逸脱は社会の誰かがそう思うからだってことだし、有価値化できないことも社会がそう捉えているからだってことになる。
いつだって、立ち返らなければならないのは「そのために私たちは何かをしてきたか?」という問いでしかない。
どんな問題でも、「自分事化」できているかどうかが問われるのである。私は、ここで、ヴァイゼッカーの演説が頭をよぎる(次の項で紹介する)。
一人ひとりが関係者だということだ。たとえば、これまでの私は、誰に対しても無価値などとラベリングをしていないか、どの人間にも価値を見い出そうとしてきたか・しているかである。
ちなみに、障害についての考え方は、現在では、障害は「もっているもの」ではなく、「あるもの」であるという捉え方であり、「医療モデル」から「社会モデル」に移っている。
R.ヴァイゼッカー「荒れ野の四〇年」
「1985年5月8日:ドイツ連邦議会演説」より。
(前略)
目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。
(中略)
しかし現実には、犯罪そのものに加えて、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのであります。当時まだ幼く、ことの計画・実施に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。
良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈然するには多くの形がありました。
戦いが終り、筆舌に尽しがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。
(中略)
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。
しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。
(後略)
参考:R
それでもなくならない「差別」
最近、教室内でインクルーシブをしなければならないという風潮は浸透してきたように思う。
どうしてかというと、「できない」という声が上げられるようになってきたからだ。
そこには、支援を要する子への配慮を「子どもたちが『ずるい』と言うから」という板挟みの難しさがある。
学級崩壊を起こしている学級などでは、これを乗り越える負担のある配慮は過度な負担となり合理的配慮が受けにくくなる可能性が高い*3のではないか、と思う。
私は子どもたちから「ずるい」という価値観が出てきてしまうことは、子どもたちが社会を感じ取って踏襲したに過ぎないと思っている。
どんなことを踏襲しているのかといえば「自分は満たされていない」という感覚だ。
それは、社会において「満たされるものと満たされないものがいる」という大人たちの感覚から生じてくるもので、その不健康さ不健全さをどう拭うかと考えた時に、これらの問題は自分事化すると考えている。
大人がずるい・ずるくないを説明できず、子どもたちを納得させられないがために起こる障害者の辛さが気になっている。
その辛さを克服するために大人たちは、価値観を共有して力を合わせたい。
こちらで紹介されている
も参考にしたいところ。
つづく。
*1:ちなみに文科省は"いろいろな価値観や背景をもつ人々による集団において、相互関係を深め、共感しながら、人間関係やチームワークを形成し、正解のない課題や経験したことのない問題について、対話をして情報を共有し、自ら深く考え、相互に考えを伝え、深め合いつつ合意形成・課題解決する能力"としている。長いなあ。
*2:また独特の言い回しで嫌気がさすけど、誰か端的な言い換えを教えてほしい
*3:個人的には、学級崩壊をしている学級に支援を要する子がいた方がいい理由はあまりないと思う。子どもたちにとって有用な教育効果が見込めるかを常に意識したいところ。ただ形を整えること、理念や哲学を推し進めることが重要なのではなく。