かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

相模原障害者施設殺傷事件から1年(その2)

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 聞かれたことに答えられるようになりたい「ハピペン」です。そもそも聞けてなかったり、文脈を勘違いしたりしてしまう……。

これのつづき

www.happypenguin.net

 
「毎日新聞」が障害者と家族の声と題して様々なエピソードを紹介している。

https://mainichi.jp/articles/20170725/mog/00m/040/015000c

その中から抜粋。

「幹だけ4分の1周にしてあげて」

障害児も預かる保育園で、先生がありのままを受け入れてくれた。周囲の子供たちにも変化があった。運動会のリレーで最初は「幹がいるから負ける」と言っていたが、話し合って「幹だけ4分の1周にしてあげて」と先生に訴えて実現。力を合わせてゴールした。

 「幹だけ4分の1周にしてあげて」と言ったとき、教師はどう反応するだろうか。

他の保護者の批判を恐れるだろうか。他の子どもからのブーイングを恐れるだろうか。

ここで、前提となる価値観が問われると思う。必要な成長はなんなのかってことだ。「どの子も参加」が前提にあるかも問われる。

条件を決めて参加できるかできないかを判断するのではなく、参加が前提で条件を考えせられるかどうかにすぎないのではないだろうか、と思っている。

根本的なところを思い出せれば、システムのための人ではなく、人のためのシステムだったはずだとってことだ。

コンフリクトを乗り越える

私は、子どもたちに必要な成長は、納得感を得るための対話ができるかどうかだと思っている。コンフリクト*1を乗り越える。葛藤を乗り越える力が求められる。

コンフリクトは、障害がある者ない者関係なく、誰と誰の間にも起こり得ることだ。そういう意味で、障害は個性と捉えられなくもない(実際に障害は個性ってことなのかっていうと疑問も残るが、捉え方の一つとしては有効だと思う)。

幹が生まれてきてくれたおかげで、僕自身が人に優しくなれたし、昔だったら許せなかったことも受け入れられるようになった。

これは、あくまで子どもが生まれてってニュアンスだよね。

障害者に出会うことが誰かに優しくなれるというニュアンスなんだろうか。

ただ、自分とは程遠いとか、関係ないとか、「違う」と感じている人と共に過ごして分かり合うことで、いろいろな物事に関して寛容になれるってことはあるだろう。
そういう意味では、障害者は自分とは「違う」と思っている人は、「違う」と思う人を知ることで、コンフリクトを乗り越える力が涵養されるところもあると思う。

そこに「愛」はあるのか

「人は愛のある生命を否定できない」と個人的には思っている。
どの生命にも愛はある。それに気づけない人が生命を傷つける。

それは、自分にも誰かしらからの愛があることに気づけていないからということが多いだろう。

その愛をないものとして扱われ、謀殺した誰かによって、逆襲が起こるのだと思う。
自分の怒りは、自分の愛への怒りなのだった。あの日、愛されていた自分を否定してくれるな、という。

この世界では、はじめどの人間も愛される。でなければ生まれて来られない。

ただ、その愛は自然と保つことができて育むことができるものではない。そういう時代になったのだと思う。

周りの誰かが情報化や価値観の多様化で選択肢が多い中を、温かく見守ってたくさんのフォローをしてあげる必要があるのだ。

そんな中「自律・自立」と言って、ふさわしいステップを設けず無理矢理、一人立ちさせたときに、苦しさや社会との葛藤に耐えられなくなった場合、今回のような事件も起こるのかもしれない。

問題は、彼が誰かを知る以前に、彼を知るものが誰もいなかったっていうことなんじゃないかと思う。

存在の否定

私は、こうした事件は、この世界の彼への関心のなさが生んだというのも一つあるだろうと考える。

コンビニ前でたばこを吸う中学生も、知らない人に注意されれば「なんだよ!ジジイ!」「うるせぇ!ババア!」なのだけど、小さい頃からあいさつしてる近所の人だったら「ちっ、分かってるよ」と火を消す。そういう話に近いと思う。

「毎日新聞」の記事より

ストーリー:相模原殺傷事件から1年(その1) 父と子40年、宝の絆

https://mainichi.jp/articles/20170723/ddm/001/040/179000c

 私はこういうのを1年間知らなかった。私はこれから、いつでもちゃんと「知るということ」を大切にしていきたいと思った。

そんな中こういうことを言う人もいるのが、現実だ。

「売名行為だ」。心外な言葉を浴びた。「子供を施設に入れるなんて」。非難もされた。それでも表に立ち続ける。チキ子さんが必ず隣に寄り添う。「一日一日は長かったなあ」。走り続けてきたお父さん。事件から間もなく1年がたつ。

 こういうことを言う人は、一体どんなきれいな完璧な世界を望んでいるのだろうか。自分だけの中にある自分だけが思う完璧な世界。こういう人はこういう風に振る舞うべきとすべて決まっているのだろう。

しかし、本来きれいな世界を逆に歪めているのはどっちだ、と言いたくなる。

そして、障害者がいる家族にもいろんな側面があるだろう。

どの家族も上の動画のようにキラキラしているわけではないと思う。それは、障害のある人もない人も同じだし、どっちであることが正解ってこともないと思う。

ただ、知っているか知らないかで生まれてくる理解の差

その差は、他の目の前の人を見たときにその人の人生の背景を想像できるかの差になる。

「こひきめちば」

これは、DAFLで会が始まるときに心構えとして教えてくれること。

  • 固定観念
  • 批難しない
  • 決めつけない
  • 違いを楽しむ
  • バカになれ

といった案内がある。

これに改めて「イイネ!」と思う。そうやって人を大切にしていきたい。

「好きだから信じる」ってこと

 一矢さんは、3歳児健診で「自閉症」と診断された。生まれつき自分を取り巻く物事や状況をうまく把握できず、結果として対人関係やコミュニケーションが難しい。一矢さんの場合は人と目を合わせない、自分から話さない、などの傾向がある。
園での暮らしは、以後約20年を数える。剛志さんは17年間にわたり家族会長を務めるなど、そばで見守ってきた。でも、愛情が届いているか、愛してくれているか、自信が持てずにいた。「お父さんと言って」と話しかけると、一矢さんはおうむ返しに「お父さん」と答えるが、視線はなかなか合わなかった。
それが突然、殺傷事件で一命を取り留めた一矢さんから何十回も「お父さん」と繰り返された。「愛情は届いていたんだ」。剛志さんは初めて、一矢さんの中に自分がいたことを実感した。
「客商売をしていたからかな。人と話すのは苦じゃなかった。一番は(事件で起訴された植松聖被告に)『生きている意味がない』って言われてしまった一矢を、世界中の人にそんなことないんだって伝えたかった」
剛志さんは言う。声を上げられない他の被害者家族の思いを代弁する気持ちもある。取材を断った他の家族から「私たちの分まで頑張って」と声をかけられたという。親類にさえも障害のある子供の存在を打ち明けられずに過ごしてきた家族だった。
「声を上げない人が悪いんじゃない。悪いのは声を出せなくさせる社会の偏見だ」

私たちは時にいっぱいいっぱい不安なんだなって思う。そこに愛があるのか、愛が通じているのか。ただ、この本当の答えは誰にも分からない。ただ、信じて毎日を過ごす。

その中で、ふいに「愛が通じていたのかもしれない!」と感じられる奇跡のような瞬間が来る。その祝福は大いに楽しんだらいいと思う。

そういう幾千の日を積み重ねて今がある。

「生きている意味がない」これは、誰かが決めることでもなければ、自分が決めることでもない。私は前提が違うって思う。

「どの人間も生きていい」これが明らかな答えだ。これに対して迷いが出てしまうことが問題で、生きられない人がいるかもしれないって選択肢が想像される時点でおかしいのだ。

普通だから、当たり前だから、これまでそうだったから、常識だから、いつもそうだからとかそういうのはいらない。

そこにいる人たちが生きやすい在り方を共創できるようになっていきたい。

優生思想から、優先思想へ。私たちは知らないうちに日々を通り過ぎてしまって一体何を優先してんだか分からないことがある。

もはや星の王子様が本当に大切なものを目の前に見せつけてくるレベル。そうならないように、目に見えないものを大切にできるようになりたい。

そのためには「知ること」「知らせること」だなって思う。

2学期、粘り強く、支援級と交流級の結びつきを強められる仕掛けを考えてみようと思う。

*1:相反する意見、態度、要求などが存在し、互いに譲らずに緊張状態が生じること。対立。軋轢。