「違いを楽しもう!」
やばい!生活リズムが崩れ始めている!?「ハピペン」です。ビバ!夏休みってことでしょうかね。
さて、今日受けて来た研修の中で残したいことをふり返る。[;contents]
1.見えない一次障害
「見えにくい発達の凸凹」がどうすれば見えるのかというのは大きな課題です。
見えにくい凸凹かま見えない人に、発達の凸凹がある人はどう見られるかというと。
- 落ち着きがない、人の話を聞いていない、姿勢が悪い
- 乱暴、切れやすい、反抗的
- わがまま、自分勝手、ルールを守れない、融通が聞かない
- 何をやっても遅い、要領が悪い、不器用
- でしゃばり、目立ちたがり
- やる気がない、字が覚えられない
- 親のしつけが悪い、親の愛情が足りない
など。このように見られます。書いているだけでも辛い気持ちになる言葉たちです。
今、一生懸命に生きておられて、活躍しているであろうみなさんが、ある日、これらの言葉を浴びせられたらどう感じるでしょうか。
「いや、オレ一生懸命働いているし!」
「なんでそんなこと言われなきゃならないの!?」
一回目は、そんな風に言い返したい気持ちになりますよね。
それが毎日続いたら。もう黙るか、切れるしかないですよね。
そもそも、発達の凸凹が見えないことによる、見えない一次障害というのがあるのです。
一次障害の例は、
- 気づかれない→放置される。手立てされない。
- 理解されない→厳しい指導。
- 誤解される→叱責、非難
- 友達の見方が変わる→いじめ
すると、二次障害「自信喪失、被害者意識、怒り、ファンタジーに浸る」といったことにつながるのです。
二次障害がひどくなるのは思春期を越えてからという話もありました。
小学校の先生たちの前では出てこないから、気づかない。大丈夫。平気って思っているが、そうではない、と。
思ったのは、人間に怠けってないんじゃないかってこと。何かしらのバイアスがあって、滞る。それが、感情だったり、疲れだったりの場合は、時間が解決してくれることもあるが、脳の特性だとそうはいかない。
それを責められるなら、子どもたちは最後の手段を使うしかない。自分はダメな人間なんだって思うことだ。「どうせ自分なんて……」って本当に教育の大敗退だと思う。
そうした子たちが、高校に入って、成人して、40歳を越えて、一番抱いてると思われる感情は何かと言ったら、「不満、恥ずかしい、心配」といろいろある中でもトップは「悔しい」だそうだ。
これも本当に切ない。
本当は誰もが抱くのと同じに「幸せで自由な生活の人生」を送りたかっただけなのに。
2.親のせいをやめる
今回お話ししてくださったのは、発達障害の当事者でもあって保護者でもある方。
本当に親のせいってのは自分も言われてきた、と言っていました。
そして、その通りなところもあると思う、と。
だけど、言われても、だって親もそうだから……責めないで。と言っていました。
私も、妙に納得。そうだよね。というか、もう誰も責めるのはやめようって心に誓いたくなった。
相談、提案、情報の伝達はするとして、できなくても責めないってのは大切だよなって思った。しょうがない部分が多分にあるわけだ。
だったら、どうしたら、改善できるか、解決できるかを第三者を巻き込んで実現したほうが良い。
3.理解者がいること
しかし、どこに行っても厳しく派と優しく派はいるらしい。
甘い、ぬるい、そんなだからダメになる。
しかし、それが向いている人もいれば向いていない人もいるっていうのが事実で、向いていない子にそれをやると取り返しがほぼつかない。
十分に優しさを与えて信頼関係ができて、伝えられる関係になってから、伝えるのでも遅くはない。
恐いのは「我こそはノーマルだから」という意識で自分の常識を振りかざして、強く指導しようとすることだ。これは絶対にあってはならないこと。恐らく発達の凸凹は誰にでもある。「我こそ…」って絶対ない。
「ねえねえ!"これ"すごいでしょ?」と言われたら、どう応じるだろうか。
当然、逆の「すごくない」って言う人もいる。
「船がたくさん」っていう人もいる。
「ビルがたくさん」っていう人もいる。
「快晴だね!」って言う人もいるかもしれない。
こういうちょっとしたことですら、人は見え方が違う。
「普通はビルがすごいに決まってるじゃん」っていうのは存在しない。
見え方、聞こえ方、感じ方が全員違うし、
違っていていいし、
それは楽しむべきことだし、
愛おしいし、
誰もが生きていていい証拠だと思う。
「違いは、楽しむもの・愛されるべきもの」なのである。
それでも、生きていれば、自分こそが正しいと言わんばかりに強い指導をする人には出会うし、そういう人は絶対ダメな人ってわけでもない。
ただ、そうした人がいても生きていくためには、理解者が一人でもいる必要がある。
理解者が一人でもいてくれたなら、その子は潰れないで生きられるかもしれない。
理解者が一人もいなかったら、もうその子は自分はダメなんだと思って一生を過ごしていくしかない。
そして、繰り返すけれど、家庭は頼れないかもしれない時代。
じゃあそうした中で一体誰が理解者になり得るのか。
私は、とても身が引き締まる思いだった。
そして、「私だけではダメ」なことも思い知った。次の進路に託すときに、理解者の確保にもっと注意を払わなければならないし、払わなければならなかった。