そば焼酎!ゲットだぜ!な「ハピペン」です。近所のお蕎麦屋さんにあって飲めました。でも、朝起きにくくなるしね。何やってんだかね。
昨日から【2つの視点】で子どもを見ようと考えている。さっそく子どもを見る楽しさが増し、自分の中ではパラダイムシフトが起こっていて
困っているのは誰か?
こう考えてみると、ほっとんど私自身だった。もしくは、妄想でクラスメイトなど。
- 子どもが目についた物を手に取る
困っている人:私 - その目について持ったものを歩きながら床に落とす
困っている人:私 - 授業中に立ち上がっておもちゃのある部屋に行こうとする
困っている人:私 - 学校の敷地内で子どもが入ってはいけないというところに入ろうとする。
困っている人:私
という風に、注意しようと思うも、すべて困っているのは「私」だった。
その後、その子が困る可能性があることというと、その子も困り得るってことはあるのだが、そのとき困っているのは私なのだ。
そうした中で一つ「目の前のその子が困っていること」に焦点を当てられるように頭を捻る。
一つ見えたその子自身の困りは「刺激に翻弄されて、本当にやりたいこと、本当に興味を持っていること以外への時間の浪費」だ。
これを減らしてあげれば生きやすくなるだろうという仮説ができた。
そうすると「その子がちゃんとしない」という考えは起こらない。こちらの環境調整となる。
有名な本。一時この言葉は流行ったように思う。
困った子は困っている子―「発達障害」の子どもと学級・学校づくり
- 作者: 大和久勝,今関和子,中川拓也,日笠正子
- 出版社/メーカー: クリエイツかもがわ
- 発売日: 2006/08/01
- メディア: 単行本
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ただ、この論で行くとぶち当たるのは、目の前の子が表出する表現として別に困った実感を持っていないってパターン。うちにもそういう子がいる。
「別にオレは困んないけど?」で全部返される。
鼻水を洋服で拭こうが、給食中に手で押さえないでくしゃみをして周りの子が食べたくなくなって給食を残すといった事態が起ころうが、「その子」は困らない。
そうした場合、別に困っていない人をただ生きてるだけなのに困ってるって前提で見ることは、失礼だなと思う。
だって、やはり、実際困っているのはほとんどこちらなのだから。
困ってない人なんている?
しかし、反対にそもそも「世の中に困っていることがない人」なんているのだろうか?
売れる営業マンには、きっと本人もまだ見えていないニーズを引き出す力があるのだろう。
私たちの仕事も似たところがあると思う。未来でぶち当たりそうな困りを、上手に「今、ここ」に接続するようにプレゼンし、子どもたちを育むわけだ。
子どもでも、大人でも、たとえ困っていないと感じていても、その困ってない実感のその先に一つくらいはその子が本当に困っていることがあるのではないだろうか……*1。
成長の動機になるような、その子が学ぶための土台にどうアクセスするかが支援者の腕の見せ所なのかもしれない。
ファシリテーターやセラピストは、それのプロなんだと思う。
対話を通して、目標に近づくための情報を引き出すこと。次の具体のアクションとしてまとめる。そして、フィードバックすること。
あと、フィードバックには、コンプリメントが重要。それをやる意図の説明が必須。
そういう一つ一つを自然にできるように、意識して過ごす。
過ごそーっと
*1:あんまり、誰かを困った人扱いすると、メサイアコンプレックス的で怖いが