かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

「自尊感情の低下」からくる苦しい結末の一つ

悲しいかな……な「ハピペン」です。

 

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この事件。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

 

コメントを見ると

  • 親の子育ての失敗
  • 本人の感情コントロール
  • 独占欲が強い

などが課題意識として挙げられています。

 

私は、ここで、やっぱり背景として「自尊感情の低下」を挙げたい。

 

「自尊感情の低下」自体は、悪いことではないとして、ただ、それを支える周囲の人々は必要だったのだと思う。

 

「周囲の人々」が鍵だ。

 

こうした時に少なくとも「その子の親」「本人の理性」「本人の欲求」を課題にしてしまう人は彼のような気持ちをもった人を救えないだろう。

 

排除思考の逆襲・八ツ当たりが自分より弱い立場の人に向かったのだと思う。

 

この構図自体は、彼も受けてきたことなのではないかと想像する。

 

「親の子育て」に対して

「誰にも選ばれない」という感覚。

これは、彼女に対してでも、親に対してでも、その他大勢に対してでも生きていれば誰でも一度は味わうことがあるものだと思う。

今回の犯人も、「誰にも選ばれない」という感覚を味わったのではないだろうか。

心が健康な人は、例えば彼女に選ばれなくても健全にやっていける。健全にやっていけるのは「基本的信頼感」があるからだろう。

 

親に自分は「選ばれている」「支持されている」という感覚が少しでもあれば、最後の最後で折れない。

そういう意味で「親の子育て」が背景に挙がるのだろう。しかし、そこに教育も手を出せると考えたい。

 

「家族のことを家族の中だけで解決できる家庭はない」と考え始めていい時代だと思う。

 

「本人の感情コントロール」に対して

理性的な判断ができたら違ったかもしれないということだろう。

だとすれば、自分の「在り方」をもてていたら違ったかもしれない。

人との関わり方の中でどのような関わり方をたくさん経験していて、人と関わるとき、自分の考えを伝えるときにはどうすればいいか。

この辺りについて犯人はどう考えているだろうか。

「強さ」「インパクト」「恐怖」など。

人との関わりの経験の多くがこれらのようなものであったら、人との関わり方について犯人がもっている方程式は、これなんけだ。

これらが、人に影響を与えられるという方程式をもっていたとしたら、選択肢は自然とそれしかない。

 

そして、誰もが自由で、誰もが誰といてもいい権利があると深く理解していていわゆる「人権感覚」が高かったなら、自分のために攻撃するって発想はなかったかもしれない。

 

このことは「自分のために彼女といた」という証拠でもあると思う。

 

自分と彼女は一体だった。

彼女が自分から離れていく。

自分は彼女がいるという完全体ではなくなった。

まして、彼女は幸せを継続しようとしている。

彼女はオレの幸せを奪っていた。

残された自分は惨めで何もないという感じに。

その取り残され不安。

自分を自分だけでは保てない弱さが一番の背景だろう。

 

心も教育できるという前提に立つとすれば、この課題にも教育は関与できると考えられる。

流行りの「感情コントロール」も心を育てる一貫だろう。

たとえば、「ちゃんとすること」ではなく、「ちゃんとしようとしたこと」を認め、感情をコントロールできる自分への肯定感を高められれば、誰かと人生を一体にしたり、誰かに人生を乗っ取られたりせずに、自分の主導権を保って自分をコントロールできるかもしれない。

 

「独占欲の強さ」に対して

上の「感情コントロール」と関連するところがある。この時期の性衝動的な何かはあるとして、やはりどう理性を保つか。どう自分を保っていくか。

 

ただ、この独占欲も、自身の中にある弱さ、寂しさから来ていると思う。満たされているという感覚があれば独りで占めたいという欲求も減るのではないだろうか。

 

さらに捻ると、欲しかったのは、自分を受け入れてくれる存在だ。自分ではとてもそう思えなかった。そんな自分を愛してくれると感じさせてくれる他者ができた。

 

そこがすべてになるのは当然なように思う。

 

自分の存在を卑下して、基本的には選ばれないと思わせるような自尊感情の低下を是正するために、公として学校が果たせる役割があるのではないだろうか。

 

「学校はどうする?」 

自己肯定感を下げない工夫。

所属感や人との結びつきの心地よさ、結びつき方のセオリーを体験などが担保できると考える。

 

学校を「人間関係のテーマパーク」化するイメージ。様々な人間関係が体験でき成長できる場なのだ。そこに公で多様な他者がいる価値も見出せる。

そうすれば、多様な人間関係を認め許せる。画一的な教師の独断と主観による指導で子どもが裁かれることも減る。正解は"みんな"がもってる。"誰か"ではない。

 

教師の態度としては、居場所、所属、在り方への賞賛が必要になる。

学校という社会にそのままではいられないと指導し続ければ、思春期に入って自分の居心地のいい場所を捜す。

それが趣味のコミュニティならまだいいが、異性との付き合いなど個人の狭いコミュニティに埋もれていくこともあるだろう。

そうすれば、その個人こそが居場所になる。居場所がなくなると感じれば逆襲が起こる。これは、かつての秋葉原の事件とも関連するところがある。

それが個別化した事件と捉えてもいいかもしれない。

 

教師は評価し人間を選びすぎていないか、自分の価値観・目によって間引きしてはいないか、どういう理由でそういう人間であってはいけないのか、それはその注意の仕方をするに値する行為であったか、そこに合意はあるかを問いたい。

 

勝手に社会代表になったつもりでバンバン注意してるけど、子どもたちは別に嫌がっていないってこともある。

 

ただ、そういった振る舞いは、教師の姿を子どもたちにそう写させる。

「あの人に嫌われたら、社会で生きていけないってことなんだ。」

この錯覚で不登校、登校しぶりになっている子もいるだろう。

 

親にも教師にもダメ出しされ、その先で「お前は社会的にダメなんだから」と級友にもダメ押しをされる。

 

そうなった子を引き上げることは簡単ではないと、そういった子を支援している人が言っていた。

 

「お前は社会的にダメなんだ」と烙印を押すとき、「本当はそんな存在いない」「そういう姿にさせている社会に問題はないのか」と問える心と余裕があるといい。

 

私は、未来の社会はよりよくなっていくわけだから今よりもっとよい社会になっていると思う。

 

その栄光の未来に子どもたちを送り届ける役なんだと思いたい。

その未来でよりよくなった社会は、あれはダメ、これはダメってよりは、「ようこそ!」って感じな社会だと思うんだ。

 

そういう期待を抱かせないで「いかに社会は厳しく冷たいか」という設定で指導しているところに、私は子どもの心との大きな歪みがあると思う。