かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

オーバーギブと怒り

今日は、残さないはじめの一歩「ハピペン」です。

 

昨日のイライラの正体を真逆の今日から考える。

 

この子の叫びに似ている。

「あおやまたかし」

引用が長いけど見せたい。


子どものやさしさや楽天性がストレートに通らない社会では、親や教師が子どものかなしみを共有することによってのみ、子どもたちの奥深くひめているものを引き出すことができるのではあるまいか。

よく考えてみると、子どもの持っている可能性を最大限に引き出すことができたときは、このような視点に立って、教師が容赦なく子どもと向き合ったときだ。

村井安子の「チューインガム一つ」も、そのようなときに生まれたし、たかはし・さとるの楽天性の再生も、また、これと無縁でない。わたしの友人の鹿島和夫氏も、同じような体験を持っている。

ぼくは最近、かれのクラスから生まれてきたある一つの作品を読んで衝撃を受けた。

 

がっこうから うちへかえったら
だれもおれへんねん
あたらしいおとうちゃんも
ぼくのおかあちゃんもにいちゃんも
それにあかちゃんも
みんなでていってしもうたんや
あかちゃんのおしめやら
おかあちゃんのふくやら
うちのにもつがなんにもあれへん
ぼくだけほってひっこししてしもうたんや
ぼくだけほっとかれたんや

ばんにおばあちゃんかえってきた
おじいちゃんもかえってきた
おかあちゃんが
「たかしだけおいとく」
とおばあちゃんにいうてでていったんやって
おかあちゃんがふくし(福祉事務所)からでたおかね
みんなもっていってしもうた
そやから ぼくのきゅうしょくのおかね
はらわれへんいうて
おばあちゃんないとった
おじいちゃんもおこっとった

あたらしいおとうちゃん
ぼく きらいやねん
いっこもかわいがってくれへん
おにいちゃんだけケンタッキーへつれていって
フライドチキンたべさせるねん
ぼくつれていってくれへん

ぼく あかちゃんようあそんだったんやで
だっこもしたった
おんぶもしたったんや
ぼくのかおみたら
じっきにわらうねんで
よみせでこうたカウンタックのおもちゃ
みせたらくれくれいうねん
てにもたしたったらくちにいれるねん
あかんいうてとりあげたら
わあーんいうてなくねんで

きのうな
ひるごはんのひゃくえんもうたやつもって
こうべデパートへあるいていったんや
パンかわんと
こうてつジーグのもけいこうてん
おなかすいたけどな
こんどあかちゃんかえってきたら
おもちゃもたしたんねん
てにもってあるかしたろかおもとんねん
はよかえってけえへんかな
かえってきたらええのにな

あおやま たかし

 

 六歳の子どもが、両親に捨てられるということは、想像を絶する絶望であろう。その絶望の中にあって、なお優しい人間であろうとするこの美しい人間を前にして、わたしは言葉がない。
 あおやま・たかし君の唯一の救いは、この思いのたけをぶちまける教師がかれの前にいたということだ。
 (中略)
 かなしい話がまだ続く。
 両親に捨てられたあおやま君は、一対の青いサンダルを大切にしていた。母親に買ってもらったたった一つの品物だった。母親のぬくもりをそのサンダルに感じていたのだろう。  秋のある日、武庫川に遠足にいく。
「川の石」という単元の学習をするために、子どもたちはそれぞれサンダルをはいて、川にはいる。
 大きな声がする。
 ひとりの女の子が赤いサンダルを川に流した。
 あおやま・たかし君が、そのサンダルを追う。木にひっかかった赤いサンダルをつかんだ。そのとき、あおやま君の体がかしぐ。
 彼は赤いサンダルを持って猛烈なスピードで岸に近づく。サンダルを女の子の胸に押しつけると、ふたたび、川にはいろうとした。
 鹿島氏は気がつく。
 かれの体がかたむいたとき、大切にしていた青いサンダルが脱げていたのだ。
 青いサンダルははるか向こうを流れてゆく。
 鹿島氏は大声をあげる。
 今一歩というとき、青いサンダルはダムの下に落ちた。
「おかあちゃんに買ってもらったサンダルが落ちたァ! だれも、ぼくのサンダルをとってくれなかったァ!」
 かれは泣き叫んだ。
 かれの絶叫を鹿島氏はどんな思いできいたことだろう。
 鹿島氏だけではなく、その話は、ぼくの胸をもかきむしる。
 人間の優しさと向き合おうとせず、それに甘えてきたぼくの半生を思う。
 絶叫は、死んだ兄の声ではなかったろうか。おかまのタッちゃんやとしぼんの声ではなかったろうか。
 人間の優しさの意味を知ろうとしなかった罪が、今、こうして、ひたひたと押し寄せ、ぼくをせめる。

灰谷健次郎『わたしの出会った子どもたち (角川文庫)』より

真剣に入り込んで読むと涙が出そうになってしまう。

 

あおやまくんの叫びってなんだろうか。

 

自分は置き去りにされること。やさしさを大切にしていても度々失うこと。傷つくこと。もう、世界を信用しきれない苦しいといった叫びに感じる。

 

私は、優しさに気づけない人になりたくない。あおやまくんのように、普段の風景の中でも、苦しんでいる誰かがいると思う。建前だとか制度だとかシステムだとかで。

そして、私も気付かないうちに、くだらない自己保身を振りかざして優しい人を傷つけているかもいしれない。だから、

私は、愚かさに気づけない人になりたくない。辛い人に目を向けていなくて、助けられない自分ではいたくない。あおやまくんを見ていて、平気でサンダルを拾えるような自分でありたい。

 

私は「オーバーギブ」で少し怒っていた。棚に上げて、不機嫌を強要してくる人、不機嫌で人をコントロールしようとする人がうざったい。

 

「あおやまくん状態」(私は足元に及ばないが)

 

人を慮りたい。推し量りたい。思いを馳せたい。

 

自分は色々な人の優しさの上に成り立っている。

そうした美しい人間になりたい。

私はそこに気づける教師になりたい。

「優しさに気づける教師」

「愚かさに気づける教師」

たとえば、何年か経って「バカだった」と謝れる人は決してバカではない。そういう人に。

 

その「オーバーギブ」と「怒り」をどう克服できるといいかを考えてみる。

昨日の話と真逆のことを言うようだけど、人はコントロールされる側とコントロールする側でしかないのかもしれない。

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コントロールは前提としてある。

 

だとすると、そのコントロールに何を載せるか。結局、意味づけ、価値づけになるけど、ポジティブなコントロール(ポジティブになれるコントロール)を循環させるか、ネガティブなコントロールを回すかの違いな気がする。

そして、ポジになる、ネガになるのは、時間の違いもある。即そうなるかもしれないし、後でそうなるかもしれない。

すぐにも、後にもポジティブにが良いと思ってしまうんだなあ(なぜ、良いと思うのか、は、また掘りたい)。

 

プラスのストロークをどう回すかも関係あるかもしれない。

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キレる(オーバーする、電池切れ、キャパ越え)の前段階で、いかに考えをシェアできるか。

誰にでもコンテクストはある。現代は、100か0かの思考に陥りやすいと思う。

そういう人が多いように見受けられる(自分がそうだからかもしれない)。

自信がないから出さない、出したいときには我慢の限界100で出す。

この背景には「どーせ自分なんて思考」があるかもしれない。

 

ファシリテーションもそうだけど、自分の内面をもっとファシってコントロールできた方がいい。コミュニケーションが大切な時代っていうのは、質・量・タイミングさまざまで自己(自分側のもっている情報を)開示して、対話をするってことなのかもしれない。

 

わたしの出会った子どもたち (角川文庫)

わたしの出会った子どもたち (角川文庫)