一つタスクが終わって、身体が軽くなった「ハピペン」です。ありがたや。
昨日は、参観の代休で、学校見学と前任校の子たちに会いに行ってきた。
【学校見学】
感想
「うわー!すごい!こんな学校あるんだ!」
廊下を歩いているだけでわくわく。
今いる学校とは真逆と言ってもいい。
学校って、教科書や学習指導要領が決めるんじゃないと思い知る。
子どもが子どもでいられる。学校を楽しんでいる。大人を楽しんでいる。そう感じた。
学校見学といえば、千代田区の麹町中に行ったことを思い出す。
しかし、この時はお休みの日だった。
子どもがいなかった。
その日を思い出しながら考えると、トップの言っていることの本当の素晴らしさは子どもと接しているところを見ないと感じきれないかもしれないということ。
【前任校にて】
最初に外で会ってしまった。低学年。不審がってゆっくり遠のく。もう一人は「あっ!」と言ったが名前が出てこない様子。
「去年1年間一緒に過ごしたでしょうよ!」
まあ、今年幸せな証拠ってことで。
次に廊下で会ったのが、4年間側で見ていた子。
手を上げて「あ、どーも」と頭を下げている。
ん?リアクション薄くない?まあいいけど。
校長先生に会いに行って、少し話して、着替えて参戦!!
学級閉鎖中の先生が案内してくれた。
かつて馴染んでいた教室に行くと……。
「わーーー!!」
「きゃーーー!!」
「えーーー!ハピペン先生ですよね!?」
「うそーーー!」
「すげーーー!」
とかなるわけでもなく、みんなとりあえず距離を置く。
一人がそっと近づいてきて手を握る。
一人の先生が「風の噂で聞いてたのよ」と言う。
「あっ、そうなの!?」と。
こわっ!風!!!!
とりあえず。
そして、やんわり和やかに過ごしていく。
なんだろう。その後話していて思ったのは、会話の声がうるさいわってこと。
「ハピペンは、なんか声小さくなった?」
「そんな静かだったっけ?」
と言われたけど……。
相対比じゃね?と思いつつ。
高学年は、背がめちゃ伸びていた。
キョウダイに手紙を書いてほしいという子。
反対に即席で寄せ書きも集めてくれた。
最初で廊下で会った子は「何が起きたのか分からなかった。頭真っ白だった」と言っていた。この子が「◯年◯組にも行ってよ!」と連れ回してくれる(休み時間等ね)。
あるクラスに行っては
「あーーー!!!せーの!いいねー!」と返してくれる子。
「Aくんに会ってあげてーー!!」と手を引っ張る子。
「明日からも来る?」開口一番でかわいい。
「さっき後で行くって言ったじゃん!」と乗り込んで来る子。
みんな明るい。一人ひとり好きだなあ。
最後下駄箱で偶然会った子が面白かった。
「あっ!誰だっけ?」
「あーっ!!!おはよっ!の先生だー!」
「ん?」
「やって!やってー!」
「えっ何を?どれ?」
「おはよっ!って」
(14:30に? そんなネタないんだけどなあ。)
と思いながらも、毎朝、外に立って全校児童にハイタッチをせがんでいたので、その時していた挨拶を思い出してみる。
イメージは、いかりや長介さんの「おいっすーー!」のポーズで、欽ちゃんのようにキレよく親しみを込めて……やってみる。
「おはよっ!」
「本物だー!」
「それーー!!」
「マスク外してーー!」
「あーー!もう一回やって!!」
(これ、そんな需要あったの?)
「おはよっ!!」
「おはよーー!」
喜びすぎだろ(笑)
「ってか、こっちじゃない?『いいねー!!』」
「そうそう、いいねー!!」
いいね!と叫んで帰れる学校。好きだ!!
学校=(?)
二つの学校に顔出し、頭の中が少し疲れた。
ただよーく分かったのは、知ってる学校でしか私たちは学校を語れないってことだ。
今の自分が「ない」と思うような学校もたぶんある。
学校って可能性をめちゃ秘めてる。
そして、結局、感じたのは「学校=子どもと大人」ってことだ。
でも、子どもってどこでも子どもとして存在してない?
そうなると、環境因が大きい。周りにいる子どもも入るけど、その子どもの周りにいるのはやはり大人で、「学校=子どもと大人」だけど、その背景の多くは大人が織り成している。
大人によって、子どもは露骨に違うのかもしれない。
学校の雰囲気がこうも違うのはなぜだろうか。
学校は学校であって、教室でないところも押さえたいところ。
学校を教室で語る時代は終わっていくのではないだろうか。
総じて、大人が子どもをコントロールしているってことなように思う。
それでも!
ってことは「コントロールできる」ってことで、それは「良い方にコントロール」することもできるかもしれないってことだ。
私はそこにどんな権威として、圧力として、君臨しているだろうか。
上手に降りたい。子どもに紛れて成長を楽しませたい。
ここで語った「コントロール」の話も関係する。