かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

146日目:【頓挫している記事】放任と自由と操作と強制の間で

いまいち納得のいかない日々が続くなあ。ハピペンです。作家の時間はそんなに悪くなさそう。みんな書いている。そして、教科書の題材よりも自分で考えたものの方が気持ちよく書いている。それは、そうだろうけど。

 

ただ、上に書いたように、いまいちだ。どこかピンと来ない。コントロールを失っている。私による子どもたちのコントロールも、子どもたちによる自身のコントロールも。明日席替えをすると思うので、明後日が楽しみである。

 

今日は「今からもう並ぶのが上手くなろう!」と声をかけてみた。そうすれば当然上手くいく。日常のレベルを上げたい。しかし、そんなのをものともしない子がいて、周りも釣られて崩れていく。仕方ないだろうか。周りは育っているのだけれど、あと4ヶ月もたないような気がする。まあ、だったら何か策を打てってところなのだけれど。

 

ブレたくはない。

 

放任?自由?操作?強制?

難易度が高い順のイメージはこんな感じ。

 

自由<操作<強制<放任

 

もう少し付け加えると

自由:自分から進んでよいと思われることを選んで過ごす。ただし、相手の自由を脅かさない。

 

操作:子どもがやらされていると感じないように、大人がそれをしたくなるように仕向け、知らぬうちにやってしまうこと。良い先生とされやすいタイプ。

 

強制:やるべきことはやる。というルールによってなんでもやらせる管理者タイプ。子どもたちは、成長のためにやらされる。

 

放任:何が起こっても放っておく。やるもやらないもその人に委ねる。

 

自由がいいとは思う。子どもたちは、学びたいように学んでいること。ただし「抵抗課題」は必要だと考える。自由には「責任」的な条件がつく。義務教育だから当たり前というような。いくつか例を出したい。

 

たとえば「文字」。強制すればきれい。

これはどうしたらいいのだろう。読めればよしだろうか。操作だろうか。きれいに書こうと思って書いてもらえたらいいのだけれど。ゴールが見えないのだろうか。色々、ゴールを示せていたらいいのかなあ。

 

たとえば「お話づくり」。強制すれば相応しい表現。これはどうしたらいいのだろう。コロコロコミックに染まっている子が一人いる。直させる?次を書かせる?どうしよう。「はじめ」「中」「おわり」になっていればよしだろうか。相手意識。それを伝えたら変わるだろうか。書きたいものを書かせたいけれど阻む理由に悩む。「学校だから」ってことだろうか。

 

常に「なぜそれをさせたいのか」がつきまとう。当たり前だけれど。そして、巷にある表現を使っているし、表現が悪いって話ではない。あれはダメ、これはダメって。それだと学校ってつまんなくないかなあ。そういう空気をどこでどう読ませよう。やっぱり、否定はしたくないのだけれど、それはそれとして、表現を改めたものもつくってもらうのが妥当な気がする。

 

(戯言でした)

 

いつかに、続く