かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

171日目:一日一日が過ぎていく

「もらうこと」に慣れていると、「もらえない」とひがむか閉ざすか。ハピペンです。

 

どうしても欲しい!なんてそうないものなのだろうな。子どものころはそうだった。欲しいものは欲しかった。我慢を知らなかった?対話がなかった?理由は分からないけれど、欲しいってあったなあ。もう少し言うと「やってみたかった」。たとえば、あの合体ロボのおもちゃを自分で合体させてみたかった。どういう仕組みか触ってみたかった。自分のニーズってそんなところだ。それを触ってみたいという感じ。

 

別に触りたくなければ、触ろうともしない。

たとえば「クラス目標」。どんなにその目標を達成すべきだとしても、魅力を感じなければ、リアルに想像できなければ、目指そうと思えない。子どもたちがクラス目標を目指すのって、教師に付き合ってくれているだけなのかもしれない(どんなに自分たちの言葉で作ったとしても?)。それ以上の前提の、なぜ、そうしなければならないのか、と冷められてしまうと終わる。

 

しかし「私はバカだから頭が良くなりたい」と悩んでいた子が、クラス一漢字をスラスラ書く。そういう姿もある。このクラスに期待している子もいるのかもしれない。自分で自分を伸ばそうとして、自分で自分が伸びていることを実感できる子が。

 

ただ、そういう子は、お家の方が私を推していることが少なくない。差は実はそこなのかもしれない。

 

気になら子がいる。まあ、こちらから話しかければいいだけなのだよなあ。苦手なタイプの子というか、安心の距離感覚が自分と違う子もいるということに、私が慣れていかないとダメかな。気にかけながら、見て行ったらいいかな。

 

今日は訳あって、24年前まで住んでいた街に降り立つ。店は変わるけれど、雰囲気は変わらない。

 

手話サークルに行くことができました。

とても楽しい!習うとか学ぶとかって楽しいことだね。そして、また違った環境の人に触れるのも楽しい。

 

ふと、朝、教師の仕事って自分には何も残らないなあ、なんて思っていた。そういう考えなしで、奉仕の心で子どもたちに残したいからしている仕事だけれど。一年契約で目まぐるしくこの手を離れる子どもたちと、何を残せているのか、こっちには何が残っているのか。訳がわからない。欲しいものが仕事で手に入らなければ、どんなに仕事を頑張っても欲しいものは手に入らない。欲しいスキルがあるなら、そこに時間を投資しないといけない。

ただし、週一、2Hの習い事は思ったよりきついかもしれない。