かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

185日目:防衛機制

チョコを食べちゃうし!パンも食べちゃう!ハピペンです。

 

クラス内で起きた暴力沙汰を、自分ごとにしすぎて暴力した側にイラついてしまう。

今日は、過度にイラつきすぎじゃないか、と立ち止まって俯瞰した。

 

「暴力を受けたのは私ではない」

 

そう強く思って対応してみた。この謎の無責任感が時として重要なことがある。当事者以上に思い入れないことだ。私が絶対的な価値観として君臨しているような気が少なからずあるから「ダメなものはダメ」なんて裁き始めようとする。というのも、私はそもそもの裁き体質だから「裁かないでいよう」と心がけるぐらいでちょうどいいのだと思う。

 

そして、そういう時は「まず、聞かないとダメ」と先日教わった。当たり前のことだった。なるべく感情を平易にして(そういうつもりで)、「どういう気持ちなの?」と問うた。

 

「人はトリミングしたところしか見えていない」のだから、ここでの「正解」は不要だ。

 

学校っていうのはこういう勧善懲悪な事案に弱い。どちらかというと、先生というのは怪獣がいれば当たり前のように番組終了時間6分前には爆破させなければならない。EDの歌が始まってしまうから。続くにしていいのは、物語の佳境で特別な時だけだ。基本的には文脈抜きで「間違ったことは、間違っている」と言う。指導というよりは、言う。言うだけ。特に「大人から子どもへは」である。当の大人は平気で破ることもしばしば。

 

ただし、正しいからといって、正しいことができたら、刑務所はいらない。

 

そうでないから難しい。特段罰もないし、本当に「内面」の「心持ち」が変わるっきゃないのである。

 

また、子どもは一日で忘れるというチートを使うから、またまた解決は難航する。すぐ忘れるのは子どもの良さだとしても。

 

そして……。

 

何があったかよりは、まず気持ちを聞いた方がいいというのを、本で見てすぐだったので、そうできた。

「自分の気持ちを言葉にする」練習帳

「自分の気持ちを言葉にする」練習帳

 

 

テクニック的(というか人間的)に、当たり前なのかもしれないけれど、責任がそこにあるから、切迫して事実確認ばかりに頭がいってしまっている。事実を聞くためにも、まず、気持ちに寄り添っちゃった方がいいのにね。ああ、お役所仕事だ。気持ちへフォーカスすることを気をつけてしていかないとなあ。ただ苦手なんだよね。自分が苦手だから、そうできない。これは、重たい弊害で懸念だ。子どもにとーっても必要な気持ちにフォーカスするってことが不得手なんだもの。だからこそ、こういう本に手を出すわけだけど。

 

思い返すと、いろいろ絡まった「防衛機制」があるように思う。暴力してしまう子の防衛機制。私の防衛機制。考え方を見つけると、少し道は開けるかもしれない。

 

防衛機制とは?ハピペン風に解釈すると、

防衛機制・・・自分の欲求(理想)と現実の違い(による葛藤)に耐える(フォローもしくはカバーする)ための、無意識的な反応(捉え方・行動・感覚)のこと。

 

暴力をしている子に対して感じることは(暴力をしている子が私に対してこう感じているのではないか、と推測することや沸き上がってくる感情は)、私の汚い性格の「投影」でしかないかもしれない。

 

もしくは、

 

やられた子への「同一視」。こっちの方がシンプルで良い。でも、やられていることが気に食わないかっていうとそうでもない。もっと別のイライラだ。

 

やっぱり「投影」かな。

 

「なぜ変わらないのか」「なぜ変わらないのか」「なぜそんな誤った解決方法を用いるのか」、その未熟さと勿体無さを悲しんでいるだろうか。そうすると、その子を思っていて美談になっちゃうかあ。

 

私は本当にこの世界が好きか。この世界の人々が好きか。生きるって楽しいって思っているか。つまらない出来事は、そこに全身では、向き合っていない、怠慢な自分を露呈させる。