かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

198日目:学校と家での子どもの姿の違い

「学校と家での子どもの姿の違い」って話題。たまにあるよね!ハピペンです。

 

ところで、学校で子どもが耐えられないとき。授業中に立ち歩いたり、おしゃべりしたり、楽しんだりしてしまう子がいるとき。家庭で発散できていないから、学校で発散しているなんていう捉え方をすることがある。果たして「あり」だろうか。

ただ、反対に家では不適応は起こらないとして、学校で起こるとしたら、その学校で起こっている問題は、「学校というシステム」が起こしている問題にすぎないのではないか(当たり前)。

 

そのため、家庭に解決を求めるのはナンセンスなのではないか、と思った。「お家でも言ってください」だとして、その構いがあれば、何かが満たされて、不適応はなくなるだろうか。

 

でも何か違う。もっと別の何か、気に食わなさのようなものがあって、それが不適応を起こしているような気がする。

 

不登校を例にすると、やっぱり学校にある何かしらの問題があるのだと思うわけだ。

何か。何か気に食わなさがあるということ。

 

というよりも、人はどこにもかしこにも、なんらかの気に食わなさを抱き得る。それを乗り越えられるかが鍵だろうか。

 

つまり、もし、学校の外、家などで支援ができるとすれば、それは、フィットしない型に耐えるエネルギーを補充するってことぐらいしかないってことなんだろうか。

 

学校にある見えない何か(システム)は変わらないし、変わり方が分からないから変わりようがない。

 

ただ、その「何か」が気になる。

 

たとえば、家庭での不適応を学校でも繰り出すってあるのだろうか。

 

家が荒れているとする。その荒れているコミュニケーションが普遍的で、そうでないと落ち着かない。だから自ら荒れを巻き起こす。

 

心地よさの感覚の麻痺のような。

 

「本当は」とか、「人間として」とか、「普通は」とか。そういうのを飛び越えている家庭があって、学校の集団主義のようなものが耐えられないのだろうか。

 

いろいろな示唆がある。

でもまだまだ分からないなあ。

もしかすると、オレの問題でもあるのだろうなあ。私自身が癒されきっていないから、彼らを受け入れきって癒すことができない。自分自身を癒しきった時、彼らもまた寛容に微笑みながら癒やしきることができる。

そんな感じなんだろうか。

 

本当は余裕でお前らを「あり」にしたいわけよ。