「ほめシャワ」のようなものをやっているハピペンです。
帰りの会のほめのコーナーを変えていったのです。
はじめは、
「日直から全体」へのいいところ探し。
次に、
「日直から個」へのいいところ探し。
そして、
「全体から日直」へのいいところ探しへ。
これの何がいいのかっていうのは、言われた側は「クラス」という目に見えないものへの、ナラティヴが書き換わるのだなあと思った。
みんなからいくつかのいいところを言ってもらった子は
「みんな見てくれているんだなあと思って嬉しかった」
「みんな優しいと思った」
と言っていた。
「見てくれないと思っていたけど→見てくれているんだなあ」に露骨に書き換わり、
「優しくないところもあると思っていたけど→優しいと思った」に書き換わる。
所属感につながるだろうなあと思った。
ラストの日直で言われるというのも、特別感が書き換わりを促進しているかもしれない。非日常体験による高揚のようなものがあるかもしれない。
ほめシャワのやり方
迷っている
- 日直が言われる
- 一日みんなが探している
- 言えそうな人が立つ
- 3分間言う
- 日直が感想を言う
こんな感じだ。劣化版すぎるかな。
「やり直し」の定着
謝るまでのプロセスが、「やり直したのか?」という問いで済んでいる。自ら気がついて、謝りに行って、解消しているようである。
この方がハードルが下がるようで、自分のしたことにも、相手にも向き合って「したこと、謝る言葉、次からどうするか」などを伝えられている。
弊害や懸念はあるだろうか?
今のところ思い浮かばないや。
「やり直せばいい」って思考に逃げるってのはあるかな。でも、「やり直せない」って、開き直る方が苦しいように思うから妥当だろうか。
道徳が相変わらず面白い。しかし、何かもう一つ工夫できないかなあ、とモヤモヤしている。
子どもたちの考えがつなぎ合わさって、一段高いところにいかないような印象。さらに踏み込んだ上位概念というか。今年度の最後に「手品師」を扱ってみようか迷い中だ。低学年の話は価値が露骨すぎるんだよね。葛藤とか、こういう見方もあるよねってのが少ない。ほぼ勧善懲悪。あとは実態に合わせた題材だね。願い授業に表せるだろうか。