かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

197日目:「みんな優しいなって思った」

「ほめシャワ」のようなものをやっているハピペンです。

 

帰りの会のほめのコーナーを変えていったのです。

 

はじめは、

「日直から全体」へのいいところ探し。

次に、

「日直から個」へのいいところ探し。

そして、

「全体から日直」へのいいところ探しへ。

 

これの何がいいのかっていうのは、言われた側は「クラス」という目に見えないものへの、ナラティヴが書き換わるのだなあと思った。

 

みんなからいくつかのいいところを言ってもらった子は

「みんな見てくれているんだなあと思って嬉しかった」

「みんな優しいと思った」

と言っていた。

 

「見てくれないと思っていたけど→見てくれているんだなあ」に露骨に書き換わり、

「優しくないところもあると思っていたけど→優しいと思った」に書き換わる。

 

所属感につながるだろうなあと思った。

ラストの日直で言われるというのも、特別感が書き換わりを促進しているかもしれない。非日常体験による高揚のようなものがあるかもしれない。

 

ほめシャワのやり方

迷っている

  • 日直が言われる
  • 一日みんなが探している
  • 言えそうな人が立つ
  • 3分間言う
  • 日直が感想を言う

こんな感じだ。劣化版すぎるかな。

 

「やり直し」の定着

謝るまでのプロセスが、「やり直したのか?」という問いで済んでいる。自ら気がついて、謝りに行って、解消しているようである。

 

この方がハードルが下がるようで、自分のしたことにも、相手にも向き合って「したこと、謝る言葉、次からどうするか」などを伝えられている。

 

弊害や懸念はあるだろうか?

今のところ思い浮かばないや。

 

「やり直せばいい」って思考に逃げるってのはあるかな。でも、「やり直せない」って、開き直る方が苦しいように思うから妥当だろうか。

 

道徳が相変わらず面白い。しかし、何かもう一つ工夫できないかなあ、とモヤモヤしている。

 

子どもたちの考えがつなぎ合わさって、一段高いところにいかないような印象。さらに踏み込んだ上位概念というか。今年度の最後に「手品師」を扱ってみようか迷い中だ。低学年の話は価値が露骨すぎるんだよね。葛藤とか、こういう見方もあるよねってのが少ない。ほぼ勧善懲悪。あとは実態に合わせた題材だね。願い授業に表せるだろうか。