左目がかゆい!ハピペンです。髪の毛が刺さってるのかなあ。なんだろうなあ。
暴力の話
改めてクラスごととして、多くの迷惑や不安につながっているのではないか、と思い。こう毎日言われると、嫌だ!となって、話し合いの時間を設けたのだけれど、半数、気になっていない。ある子どもの暴力を気にしているのは一部で、良く見ている子どもたちは、やる方もやられる方も。どっちもどっちなのではないか、と気がついているようだった。だからそれでいいってのとは違うのだけれど、全員が循環について話しながら、違うと思うことは違う。違うと思わないことは違わないといった感じで意見を吐き出し合った。それによって「50:50」感が出た。現象の見方がアップデートされた。
「暴力=悪いこと」この公式は揺るがしにくいのだけれど、「暴力=悪いから僕らは暴力をする人を責め続けていればいい」ではなくなった。「何か変えれば、変わるかもしれない。何か、関わり方を変えなきゃいけないだろう。」という土台ができた。
- 何かに気がついていないからではないか。
- 暴力する側だけが悪いのではないはずだ。
- その代わりに自分を殴るという案が出たがそれはおかしいということ。
- みんなには自分も含まれていて、みんなを大切にした方がいいということ。
- 相手の気持ちを考えること。
などの意見が出た。
この日、その子は落ち着くことになる。
足りないものはなんなのだろうか。もしかすると、関心かもしれない。もっと関心を持たれたい。
「人生の棚卸し」
生活科では相変わらずえぐいことをポップに「自分が生まれてからのまとめ」みたいなものをやっているけれど、子どもたちはザルで、愛情をもらっても、もらっても足りないのだった。
自分が愛されていると知らなかった。
もっと知りたい。
そういうことがよく書かれている。
マジなトーンの話を子どもには定期的にする必要があって、いかに日常をこなしているかばかりのコミュニケーションになってしまうと、大事なものから遠ざかる。
コンテンツのための出生になっていってしまうということだ。自分がこの家に来て良かったのか分からない。子どもはフラットだから、そこの真相を確かめられず、分からずにいる。そんなの当たり前だし態度で示されている、じゃなきゃ、服買わないだろ、飯作らないだろ、旅行行かないだろ、といろいろ御託はあるのだけれど、子どもにとってそれは明文化されないと確かにならないし、明文化されても不確かなくらい曖昧なものだ。
一般的には、それは、一般化された愛の印ってことで、「いや、それは愛されたんだよ」と誰かが通訳して、「(そうなんだ)」と考えなくていい方へ流れていく。
しかし、親に(親によるが)、愛を確かめるという通過儀礼はあってもいいように思う。そこから、生がリアリティをもって、実体になれるようなイメージがある。
永遠の問いの「自分は在っていいのか」という問いを実存からの実存の承認で、棚上げにする、保留にする、とりあえず仮固定する。そうして、より実際的な生に目を向けられる。安心して次にいける。
愛されていることの言語化は、そういう前向きな糧になると思った。
人間ってのは面白い。
生き物が思いをしょっていて、良く在ったり、良くなく在ったりする。その様々な時を眺めて、それはそれでありのまま受け止めて付き合って、少しずつ変わっていく様子を称えて、未来を信じて幸せに生きていってくれって願いをもって、この手を放していく。
彼らは言うほど何も覚えちゃいない。だから、せめて「嫌だった」がないようにしたいなあくらいに強欲なひもじい心になってしまうのだけれど、いつまでも背中を見守って彼らのたくましさを誇りたい気持ちだ。
ここまで。
ありがと。