かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

209日目:卑下しないこと

いつからだろう卑下するようになったのは。ハピペンです。卑下するようになったのは、20歳から24歳の間で何かがあったからだ。どうしてそうなったのかは分からない。どこかで、自分は醜い生き物だということにしたのだと思う。自分は劣っていると決定的に思うような選択があった。何かは分からない。取り返しのつかない決定ミスをしたのだろう。しかし、実際はとっくのとうにその選択ミスはなかったことになっているのだと思うのだけれど、傷が癒えない。そして、そう卑下していることの利益があるのだろう。なんだろうか。

 

攻撃されにくいってことかもしれない。今の時代、自信がないようにしていることで、相手は攻撃の手を緩めやすいのだ。自己防衛的にこれ以上傷つけないでくれの現れとしての「卑下」。あり得る。

 

出る杭は打たれた後とも考えられるかもしれない。

 

または、傷つけてしまったという可能性もある。出る杭で傷つけたとか、自信があることで傷つけたとか。自分が前向きというか、誤った自信過剰で傲慢に生きた結果、誰かを不幸にした。挙句、自分もどん底に陥った。だから、自分を信じられなくなった。「だから、助けて。」、そのメッセージを変換した結果が「卑下」だ。

 

「卑下」は、救難信号。誰か話し相手を探しているのかもしれない。

 

今日は授業を参観してもらった。

授業後の話が嬉しいし、楽しい。

  • これから学校はどんどん良くなる。
  • 次の教育をつくっていくこと。
  • 「◯◯してあげる」ってのが既に子どもたちの感覚から離れているかもしれない。
  • 孤独じゃないのに孤独と感じやすい時代。

こういう光速で頷きたくなるような言葉を言える人に久しぶりに出会う。

私はたくさん刺激をもらったけれど、相手にとってはなんでもない話ばかりだっただろうと思う。でも、よい。たまには幸せを享受する。

 

なんであれ、今日で一旦ひと段落です。

うん。

本当に、そう。

あんなに嫌だった昨日や今日の朝から、お陰でいくらか、プラスで眠れる今日が嬉しい。

 

そのつながり経由で、LINEをした人もいる。その人は電話までくれる。

 

私の生き方を心配して気遣ってくれるのだった。そんな人普通はいない。こんな光栄なことってないだろう。なら、幸せを願ってくれる人がいるのだから、私の根幹は幸せでいよう。そういうスイッチが入る感じがした。