かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

「やりたい」で「やる」なら?

ぼやきである。

「やりたいこと」よ「やりたくないこと」への転換が気になる。

 

本当にこの成績時期の日常が豊かでないなあ。

最近、特段「問い」も持てない。

文句ばかり浮かぶ。

(教師生活リマインダーみたいのがほしいわ。たとえば「たすくま」も自分で機能させられないから、誰か16:45に「所見ファイルに一言書きましょう」みたいな、伴走を感じる仕組みがほしい。ってなら、てめーでやれよ!って感じだが)

 

疲労困憊は、「他人のせい」を生む。穏やかじゃない。

 

うちの学校がそういうカリキュラムなんだと思う。カリキュラムのせい。

 

でも、本当は、自分のせいなのかもしれない。

 

詰まっている中に詰める。これは、いかんね。

それが、100%悪いってわけではないだろうと思う。工夫がいるだろってこと。その整合性というか、妥当性。社会にとっての妥当性の確保のために、自分たちの妥当性は搾取されてしまっているわけだ。

 

誰かが責任を負わないために。

 

毎日実際に子どもを見ているわけでもない、地域・保護者・社会のために、時間が奪われるわけだ。どれくらい異様なことが起こっているかといえば、たとえば地域の塾で、日常的にボール運動と器械体操と陸上を教え、絵や工作の体験もさせる、音楽ももちろん標準コースで、さらに料理や裁縫や衣服の扱いについても教えます。もちろん給食も出ます(料金別)、掃除の仕方も教え、話し合いの仕方も教える、夏には水泳指導、秋にはダンスの発表が見たい、音楽会もやってほしいですという状態。

 

本当に?!地域の塾に、お金払ってるのにそこまで求めないですよね?!となる。

 

さらに、その塾に、オタクは英語の時間ないんですか?なんでプログラミングのコースをやってくれないんですか?ってことが起こっている。

 

そこに、専門部署とか、特段投資(ヒト、モノ、カネ、ジョウホウ)もなく。

 

人材そのままでの事業拡大!!

教科書一新!!

 

みたいなことが起こっている中で、要望を聞いている場合でもない。聞くとして、業務改善というか改革しませんか?!

 

社員離れていきますよ〜!!ってはず。

 

言いなり。

 

ただの、公務員体質か!!

 

 

そんな状況なのに、相応しさよりも、個人が気持ちいいか気持ちよくないかがまかり通る世界。

 

「個と全体」のどちらが優先されるかというどうでもいい時間の消耗。

 

前提がないとダメだなあ。

 

各々、自分の働き方は否定したくないだろうけども。

 

それが、許すってことなのかもしれない。

 

うーん?

 

たとえばAってみんなのためにやるべき仕事があるとする。でも日常的にBという仕事をする必要がある。ただし、それは、Cによって、残業しなければできない。

そうすると、Cを受け入れて最優先し、Bは残業で行う。Cがないときに、かろうじてAをやる。もしくは、Aも残業で行う、となる。

 

異常である。異常な働き方に合わせることを強要されるので、目下、下々のヒラたちも、そのスケジューリングに拘束される。

 

朽ちていくしかない。

 

サスティナビリティの方向に向かっていった方がいい。持続可能性と逆行していて、この先10年使えない方法を研究して、これは、歴史的に何の意味があるのか。そんな研究が許されることが異常事態だ。

 

そうして、どんどんとエネルギーが奪われていく。そうして、諸々のよくないことは起こっているのではないだろうか。

 

虐待、いじめ、ハラスメント、性暴力、あおり運転、自殺、いきすぎた依存、不登校、心の病など。

 

だから、「感情コントロール」が必要です。そういうことなんだろうか?

 

私は、「機能性食品」でも、維持できなくなった世界を次はどうフォローするのか。

これが、全く分からずにいる。

 

と、こんな感じに火が消えまくりなので、やっぱり、やりたいことを大切にして生きないといかんよなあと思う。

 

「やりたくないことをこなす」のが、人生ではたまらない。それに慣れたら、もう自分は自分ではなくて、ロボだ。

 

ただし、「実存を生きよう」という話でもない。

 

恐らく両立とか両輪とかではいかがか?(何との両輪なのかがちょっとまだ見えない。自分の持続可能性とか、分人とか、共同体としてのとか、システムの一部としての自分としてとか、ちょっと分からない。)という話である。

 

あとは、たとえば「許容できる範囲での「やりたいでやる」ということ。

それには「時間」が関係している。実存が「死を意識する」ことに似ている。「時間」の配分によって、「やりたくないこと」や「やりたい」ことへの転換が起こっている部分がある。