昨日は、たっぷりと心許せる仲で話した。会うたびに、ここまでいろいろな巡り合わせがあって今があるのだよなあ、と思わされる。お互いについて語りたいことを語ること。それが、明らかに次の人生を生み出していく。その雰囲気が楽しい。なんとなく、高尚な情報がなくても、もう誰かしらに会うだけで人生は紡いでいけるのではないか、と思う。もちろん折りを見ての焦燥的なインプットも必要に応じてするにはするとして。
始まりは2016年だった
よくよく考えてみると、改めて自分探しを始めたのは、2016年からだった。ずっと自分が自分でないような感覚はあるとして、改めてそれを突きつけられた出来事があった。
それは、教員採用試験の一次の面接で落ちたということだった。その年、この面接で例年より多くの人が落ちたそうだが、それに入っていたのは少しショックだった。
そして、先輩のつてで、かつて、試験に詳しかった方に会うことになる。
その人は私の話を聞きながら「結局、人生で何がしたいのか分からない」と銘打った。
グサっていうのもあったけど、「なるほど」とも思った。何だろうなあ。覆い隠しているものがある。覆い隠していない気だけれど。見え隠れするような何か。他者からすると見えないもの。私はどこにいるのか、と思うようになった。私は何なのか。
いい加減「アナと雪の女王」も古くなったころ。また、「ありのままの自分」なんてものを求めて頭の中は彷徨いだした。
反動で
一次で落ちたダメージが、ズーンとは続いていた。鈍痛。
「あなたは役に立てない人間です」という烙印が辛い。それに加えてふと「何がしたい人生か分からない」という言葉がよぎる。
私は「死にたい気持ちをケアしたい」。そのために、何者かになろうとしていた。
この夏、福井県に行って茂さんに会った。
あるサイトのメール相談員になった。
そうして、少しだけ「自分」を手にした。
そして、関わってみたものがもう一つあった。
「ぬいぐるみ心理学」だった。
ぬいぐる心理学
検索してもらったら出るかと思うのだけれど、「いばっち」という人が普及しているもの。
人は「ぬいぐるみ」には、ありのままの自分をさらけ出していた期間があり、ぬいぐるみに触れることで、「ありのままの自分でいる感覚」を取り戻せるだろう。というような内容だったと思う。
そうして、ペンギンとペンギンとホエルオーの三匹は即日家に来たのだった。
そして、9月の後半にブログを再開している。
その1ヶ月の間、私は何をしていたのだろう。
ああ、Wordpressでサイトを作っていたんだ。ドメイン取って、サーバー借りて。
でも、私の古いパソコンでは、記事が増えるほどWordpressが重くなり、ハテナに戻ったのだったと思う。
ブログってものを情報サイトにしようとしすぎて、擦り切れていたため「好き勝手書くのがブログじゃい!」と奮起し直し、書き始めるのだった。
この年の後半は結構苦しんでいて、「ありのままの自分」どころではなかった。その日その日を生き残ることで精一杯だった。
そして、こうも思ったのだった。「自分っぽい自分で過ごせてしまう場所にいるから、自分が分からない。私は、この職場を去るべきなのだろう」そんなことを考えるようになった。
自分は、真っさらな状態でどういう役に立つのか。そういうことを考えて一歩外に出ることにした。同時にDAFLにも出会って、自分が自分の外にどう活かせるのかを考える機会をもらった。そこでいろんな人に出会って、「自分は自分だ」と思えた。出会う一人ひとりがとてもすんごくって素晴らしいのに、そのどれもになれないし、なりたいとも思えなかった。私は私のやりたい私でいていいということだ。
そうして、また歯車が動き出す。
自分の使い方を少しだけ知るようになる。
これまで、好きだったり、知りたかったりしたのにしなかったことをし始めた。
- ブリーフセラピー
- アドラー心理学
- 自尊心について研究するために大学院を検討する
- ACの自助グループに参加する
- ボランティアに片足を突っ込む
- 自分たちの会を催す
などなど。
そうして、2017年を走って、面白いオファーがあったから2018年も走って、2019年になった。
まあ、生きていればいろんなダメージがあるわな。他者に出会って、いろいろなきっかけが生まれて、行動が変わる。そうした時に、人生も進む。どっちでもいいから、進むとなんかある。すがる。苦しむ。嗚咽する。戸惑う。祈る。のたうち回る。塞ぎ込む。そうして残ったものを愛せもする。今起こしていることが、確かに未来を紡いでいく。