かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

それ見たことか

昨日は、木刀を持って振ったので、今週吹き溜まっていた児童指導という名の邪を一刀両断した気分である。

 

「それ見たことか」と成敗した気分な金曜だ。

 

「待つ」ということ

ふとボランティアさんに、「待つ」という仕事について語る場面があった。

「待つ」と、一言に言っても、意外と難しいことなように思う。

まず、そもそも「待つ」という仕事があることに気がつきにくい。

それほど、教師っていう人たちは、いつも何かしら働きかけをしたがる。

自分が満足する介入をしたくなるのだ。

そうではなく、子どもが満足する介入を施すべきで、その加減を追求するのがこの仕事で一つ大切なことなわけだ。

 

特別支援の感覚では、「待つ」大切さは、ひしひしと感じる。そして、「待つ」には、長期的な視点と短期的な視点がある。

 

前提として、「その子の自立」への意識もいる。教師がいかにコントロールするかという方を意識していると結果的に動かないことが少なくない。

 

長期の話では、たとえば、漢字を好きになるかどうかなんて、働きかけをなんとなく続けるとして、6年生まで待ったっていい。

ある日、漢字がなかなか覚えられなくて、怒っていた子も6年生になって、ある日「私やっぱり漢字書けるようになりたいんだよね」と言った。

 

短期の話では、妻は、「待つ」とはクールダウンの時間だと言う。そういう意味では、「指導のタイミングを図る」とも言い換えられるかもしれない。絵の具の指導で描く絵を取りに来させたい時に、「絵を取る→絵の具の準備」という流れのイメージを勝手に押し付けて、動かそうとする。これは、失敗。待っていると絵の具の準備がはじまり、絵を取りに来た。これで悪くない。ちゃんと準備できたこと、絵を取りに来たことを言祝ぐのでよい。

 

これは、その子の氣を見て、氣を伺うというような話にもつながるなあ。

 

「間だ」

 

「間の支配」が大切だ。

 

エリーさんの言っていた「場をドミナンスする」と「氣」が関連する。おそらく。

 

習い事の話

バラバラの体験から、新しい知識が入ることで、その要素と要素をつなぐことができる。

これだから、知ることは面白い。理解が深まると、生きるのが心地よくなる。

いろいろな懸念とか、不安とか、違うんじゃない?みたいのって人に話すと感じなくはないのだけれど、私が一番、というか、私だけが今自分のしていることの楽しさを味わっている。身体を運んで学ぶのは大変だけれど、そこにコストをかけるだけの価値はある。

 

待ち方

また、待ち方にもいろいろある。

何もせずに待つ。

備えて待つ。

目を向けて待つ。

気にかけながら待つ。

考えながら待つ。

話しながら待つ。

相談して待つ。

誰かと待つ。

自分のことをしながら待つ。

離れて待つ。

隣に座って待つ。

しばらく待つ。

時間の限り待つ。

いつまでも待つ。

笑顔で待つ。

立って待つ。

座って待つ。

眠って待つ。

などなど。

 

そのどれもが無駄ではなく、結果的に相手に向いたものになると思うんだよなあ。

 

言祝ぐ

個人的な「勇気づけ」のための考え方が「言祝ぐ」だ。

「待つ」でなく、積極的に関わるという手段。

 

「言祝ぐ」は、誉めるでなく、祝うようなイメージ。

すると、コントロールが薄くなって、純粋に祝えているような気分になる。

 

言祝ごう。言祝ごう。

 

言祝ぐといい。

寿げる(「ことほげる」だと「言祝」が出ない)といい。

「言祝ぎる」は出る。

「ことほがる」は出ない。

 

言祝ぎたいわけだ。

 

ナラティヴ・セラピーでは、変化を記念的に残す手立てを取ることがある。

賞状であったり、カードであったり、手紙であったり、書き換わった物語について可視化したものを残す。

このギフトは、思った以上の効果をもつ。どこかしらで流行っている「一筆箋を渡そう」ってのに似ている。

そのときの思いのこもった、変化の物語についてのお祝いを形にしたものを渡すことは、温かい。

 

そんな色々。