今日は「作文」の時間があった。
自分の一番印象に残った本について。
ところで
昨日から少しざわつくなーと思っていた。
「べき」と「ねばならない」だらけの学期末に、彼らはロボ化して、人間としての本能が暴走し始めているのではないかと思った。
「べき」と「ねばならない」によって、嫌なことにも(特段やらなくても死なないことにも)理性で不満を押しやって取り組み、前頭葉を酷使しすぎているのだ。
生憎、私は、そういうときに、リラックスして、肩の力を緩めさせるような、器量や技術は持ちあわせていない。なんてかわいそうな子どもたちだろう。
ちょっとした、アイスブレイクやゲームを入れてあげたいところだが、あと一週間で夏休みと思ってがんばってくださいという、この時期、大人界でリポビタンDより振る舞われるガソリンで、もう一度理性スイッチを入れてもらうことにした。
その朝から、作文の時間への切り替えが澄んでいた。
水を打ったような静けさ
用紙やら何やらを配って、書く時間に入る。その瞬間、スッと音が止んだ。集中を感じた。
昨日、例文を班で分析させ、何が書かれているか意味をメタしてもらい、その攻略シートをもとに作文を始めてもらったからかもしれない。
どんな風に書けばいいか迷ったら、仲間を頼りにできるし、仲間と作った道しるべも使って書けるから、取り掛かりに対して、不安感や何したらいいか分からない感が少なかったのだと思う。
先生からだけでなく、友だちから十分学べるよねってことをやりたくて行ったことだけれど、思ったよりも効果があったように思う。
いつ言祝ぐ?適切な側面の時でしょ!
ざわつきに対して、一喝したい気持ちを抑え(一喝なんかそもそもしないけれど)、今だ!と声を上げた。
「もうあまり口を出すつもりはないのだけれどね。今、みなさんは集中していますよ!シーンとやれているよ!この静かな気持ち良さとか、集中できるってことを忘れないんだよ。君たちは集中できるんだよ。大したもんだ!」
と言っておいた。
これがおそらく、この先で起点になる。
「あの感覚、思い出してごらん」とか
「スッと、あの時みたいにできるよ」とか
「あの静かさ、作ってごらん、誰が作るんだっけ」とか言うと、おそらく再現されるだろうと思う。
今日もいい日だった。子どもたちは、平和に暮らした(ように見えた)。
また、明日。