かならず幸せになれるいきもの

おしゃべりによる出現する未来から学ぶ

揺らぎ

「揺らぎ。」楽しいことの一つだと思う。

 

子どもたちは、土井隆義さんの言うような閉鎖的なコミュニティの中にいる。それが中高生に起こるのではなくて、小学生たちに起こりはじめているわけだ。

 

たとえば、一番犯罪被害に遭っているのは、女子高生だという話がある。被害に遭うのが弱いからだとすれば、一番被害に遭っているのは、小学生の女の子のはずである。それも低学年。さらに言えば、幼児。

 

しかし、一番多いのは、女子高生なわけだ。その理由は、行動範囲だそう。

 

これと、閉鎖的なコミュティの話も少しだけつながる。彼らの中ではスマホを手に入れ始める子たちがいる。その子たちが、その閉鎖的なコミュニティの中で、自分をどうコントロールして振る舞えばいいのかが、素人なのだ。

 

つまり、行動範囲的なバーチャルな世界での振る舞いに課題がある。その結果として、おそらくこの先、その閉鎖的でバーチャルなやり取りの中で、苦悩する瞬間が来るのではないか、という懸念がある。

 

たとえば、いくら「異質との出会い」の重要性を説いたとしても、子どもたちは、そう自分を律せない。

 

それよりも、インスタントでコンビニエンスな承認に飲み込まれるのだ。

 

そして、私がそれに懸念を抱いていたとしても、彼らはそれを楽しいものとする方に社会を構築していって進化していくのではないだろうか。もしくは、そのシステムが崩壊して、その過ちから学ぶか。

 

まあ、そこに、妥当なシステムを構築して放り込んで、ランダムを楽しむ環境をつくるしかないのだろうなあ。

 

その人の思い通りにすることが、果たしてその人を幸せにするのか、ということが問いたい。

 

個人主義と自己責任論。それの回避と責任のたらい回しによる不安解消が起こっている。

 

とりあえず、自分の人生や環境に不満なんだよね。そして、その受け皿についついなってしまいがちな私がそれを一心に受けてしまうパターンなのだと思う。なんて依存され体質なんだ。自分が依存する体質でもあるからだろうけれど。

 

あんま打開策が浮かばないけれど、授業で変えていけたらいいなあ。