不運は、その時の限りにおいて不運である。ただし、不運は不運であり続けることはできない。それでも、不運に目を向ける限り人は延々と不運になることはできる。
そういうことを思う。株価はまるで心情のようだと思う。毎日留まるってことがない。そりゃそうで、心理的要因が売買に影響するのだから、株価≒心情でも差し支えないだろうね。
そう理解できると、上がる日もあれば、下がる日もあることに納得がいく。それに対して、平常でない時にまで平常を装おうとするところに、その心理的枠組みともいえるようなシステムに欠陥がある。工業生産時代の名残なのか、常に一定の生産性を担っていることが望ましいとされているわけだ。しかし、サービス業だらけになって、感情労働の中で、それを求めるのは、病人を出没させるだろうな、と思う。
前向きな選択であるなら、そう切り替えられるなら、すべては善として循環するだろうね。あの子の言う「潔いのと投げやりなのは、似ているけど違うんだ」というのは、そういう心境のことを言っているのだろうな。
「3月のライオン」……メルカリで安く売ってるなあ。
自分としては、悪くない仕上がりだなあと思う子どもたち。視点が悪くない。動きはちょっと悪いけどね。自分から動ける人が増えてきている……と思うのだが。
やはり、文集問題に直面。懸念しかないが……そういうのがどう終結していくのか、自分ごとなんだけれど、それはそれで、少し傍観して見てみよう。それでも、別に焦らなくたって、大団円は待っていると私は思うのだよね。うん。